お取り寄せを頼んでいた、噂の「ダンジョン飯」。入荷の連絡を受けて早速買って読んでみました。
面白いです。
モンスターを調理して食べるという発想は別に驚くことでもないのですが(え、普通驚く?だってFF11の前衛の食事の定番だった「ミスラ風山の幸串焼き」だってコカトリスの肉ですよ)キャラクターが実に愛らしいです。モンスターの生態の設定も凝ってますし、マンドレイク(マンドラゴラ)の獲り方のような定番ネタもしっかり入ってて実に満足です。
で、読んでてふと思い出しました。生物学科における、食にまつわるあれやこれやの思い出。
***
《組織学実習》
「ところで皆さん、あれは食べてみましたか?」
組織学の先生が転勤される年度末。半年間みっちり指導を受けた、理学部生物学科動物学専攻の二年生15人が催した送別の席で、先生はいきなりこうおっしゃいました。
組織学実習とは。ラットを丸ごと全部使い、皮膚、骨、筋肉、消化器系に呼吸器系、神経系に生殖器系と、全ての臓器の組織切片を大量に作りまくっては、ことごとく観察しスケッチすることで、さまざまな動物細胞、組織や器官の構造を理解するというボリュームのある実習でした。一匹に一つしかない貴重な臓器は無駄なく使われますが、骨格筋などは一部あれば十分なので、ほとんどは廃棄されます。
「僕らが学生の時は食べてみましたよ。焼いて、醤油つけてね」
半年間ラットの内臓と向き合い、その隣で、その匂いが立ち込める中で平気で夜食を食べられる程度に鍛えられた学生達でしたが、さすがに絶句しました。この時まだ、彼らは若かった。
《発生学実習》
しかして次期、発生学実習が始まります。先生が仕入れてきた地鶏の有精卵を冷蔵保存し、実験に使う日から逆算して孵卵器に入れ、当番で転卵などの管理をし、当日、指定の日数の卵を取り出し、胚を観察していくのですが…
(ちなみに「Apoptosis」に出てくるのもこのニワトリの胚です)
「卵は余裕みて多めに用意してあるけどね、あくまで予備だからね、茹でて食べたりしちゃ駄目だからね」
そう言われてしまったら、食べてみたくなるのが人の情。コクがあって美味しかったです。
それから魚類の発生。サケマス孵化場から分けてもらった、新鮮な生の筋子。筋子をイクラに調理する時、真水で洗っては硬くなってしまうので塩水で洗いますよね。そうすることで、卵はまだメスの胎内にいると騙されているのです。真水に触れた、産卵され即受精された、となったら硬化して孵化まで中身を守るようにできているのです。
さて塩水で洗われ精子をかけられた生イクラたち。そーっと真水に移し、酸素を供給すべく、流しっぱなしの環境を整えて、本日は終了。まだまだあります生筋子。
「じゃ今度は次のsolution整えて。醤油3:日本酒2ね」
「はーい」
各研究室にもお裾分け。毎年定例でした。
《臨海実習:分類学》
そして忘れられない、陸の孤島、北海道A町実験施設に19日間缶詰になり、採集と実験と討論とレポート書きと飲み会に明け暮れた臨海実習。まずは採ります。採りまくります。
ご存知でしょうか?動物界(animal kingdom)に属する動物門のうち、陸上にも生息するものは一部にすぎないことを。最も単純な多細胞動物である海綿動物。クラゲやサンゴを含む刺胞動物。ウニやヒトデを含む棘皮動物などなど、海中にしか生息しない動物たちの世界を。動物の系統樹の大部分は、海の中に沈んでいるのです。
実習船に乗り込み、初めて目の当たりにする海産無脊椎動物の数々。採って持ち帰ったらとにかくスケッチします。ものによっては解剖もします。…その後ですか?
そう、ある晩の食事の席に、昼間皆が驚嘆した30センチを超えるヒトデが、ほかほかと湯気を上げてお皿に載って出てきたのです。他の海の幸と一緒に。
「蒸してみた」
「色が変わったね」
「ちょ、これ食べるんじゃないよね?」
「ウニがいけるんだからヒトデだっていける!」
「待って、毒はないけど臭みがあるってこの本に書いてある!」
「本に載ってるってことは、食べた人いるんだ」
「さあせっかくだから(れく)さんも!こんな機会二度とないから!」
「やだっ人間やめたくないっ!」
結局私は食べませんでしたけど…今になって、ほんの少しだけ、惜しかった気がしないでもないです。
《臨海実習:生理学》
スケッチだけではありません。新鮮な海の生物で実験だってします。詳細は省きますが、微弱な電流を流したり、光や音の刺激を順々に強めたり弱めたりと言った、微妙な刺激に対する反応を観察するためですから、半端な活きの良さでは足りません。その日の早朝に、技官の皆さんが潜って採ってきてくれたぴちぴちのホタテやカニやウニ。
「余裕を持って採ってきてあるから、失敗しても大丈夫だよ。もちろん、一発で成功したら、残りは好きにしていいからね」
これで実験スキル上がらない訳がないでしょう?頑張ってほとんど一発で終わらせて、舌鼓を打ちましたっけねえ。
詳細は省くと書きましたが、ホタテを使った、刺激の強さの変化に対する反応を見る実験風景は実にシュールでした。「動物のお医者さん」で、
昼なお暗い塔の中 歩き続ける黒装束の集団
その口から漏れる怪しげな呪文
そう、ここで行われているのは黒ミサ――
こんな感じでサイレージの作業を描写していましたが、我々がやっていたことはさしずめ新興宗教ホタテ教の儀式に見えたでしょう。
ホタテには明暗を図る程度の眼点があり、急に周囲が暗くなると外敵がやってきたと判断し、貝柱を収縮させてジャンプして逃げようとします。このとき、具体的にどれだけ光度が下がったら「暗くなった」と認識するのか、その閾値を測るべく、夜の帳が落ちるのを待って実験開始です。
陸の孤島の実験施設の暗い部屋、コンクリート打ちっ放しの床にチョークで記された距離と数値。
二つの光源と、光度計。白い衣を纏った複数の人影が見守るのは、中央の丸水槽の中に鎮座まします御神体。
「ホタテ様、安定してます」
「光源2号、消すよ」
「3、2、1…」かち。
「光度記録OK、⚪︎ルクスから✖️ルクスです」
「…。」
「動いた?」
「動いたよ、かすかに」
「かすかにじゃ駄目だ、もう一回」
「ホタテ様がお疲れのようです、新しいのに換えましょう」
「それじゃあ最初からデータ取り直しだよ」
「いくよ」かちり。ばっしゃーん。
「うわっ!」
活きの良すぎるホタテ様が撥ねた海水を浴びて、過熱した光源が逝っちゃったり。
とこのように、ホタテ様のご神託を伺っては記録を繰り返しておりました。ああ怪しい。
《遺伝学教室》
四年生になって私が決めた専門はショウジョウバエの遺伝学でした。飼育室はもちろん、実験室も、居室も、逃げ出したハエが飛び交っています。食料である酵母のありかの指標として、アルコールに反応する彼らは、もちろん酒杯と見れば飛び込んできます。それを平然と見つめ、ハエだけ掬って捨て、残りを飲み干せる神経が養われます。
ハエの飼料は毎週当番制で作ります。主な材料は酵母菌に糖、コーングリッツ、寒天、人間の食品にも使える防腐剤。なんの問題もありません。いつもハエの飼料を煮込むその鍋で、飲み会の料理も誂えます。ハエ部屋の飲み会にご相伴する他の部屋の人も承知です。
ハエと同じ酒を酌み交わし、同じ鍋の飯をつついたハエ部屋の住人たち。巨大な冷蔵庫のような低温実験施設にはビールも冷えていましたし、ジョギング帰りの教授も冷えていました。隣の研究室では大量のカニの殻を扱っていました。もうなんだってありでした。
就職してからも、実験や作業と食は切っても切れない関係にありました。しかし今は掟が変わってしまい、職場で飲み会やお祭りはできない風潮だそうです。残念なことだなあ。五感を全て使ってこそ、いい研究ができるというものだと思うんですが。