2014年3月25日火曜日

quia pius es

 最近ツイッターを始めました。いろいろ呟いたり人の呟きを見ているうちに、初めて、外でのつながりが全くない、ツイッター由来のお友達(と私は勝手に思っていますが)ができました。接点は合唱とゲーム音楽。その方が紹介してくださった、ゲーム合唱曲動画の一節に感じたことを叫びます。

その動画です。まずは聴いてみてください。

 それは戦闘機ゲーム、舞台はおそらく激しい空中戦。一呼吸ごとに、敵味方の戦闘機が撃墜され空に散っていっているのであろうその最中、その空に響き渡るレクイエム、「Agnus Dei(神の子羊)」。

 ミサ典礼文なんてものに全く縁のないであろう一般ゲーマー閲覧者の為でしょうか、きちんと歌詞と、投稿者自身の手によるものらしい対訳が表示されます。

Agnus Dei, qui tollis peccata mundi: qui tollis peccata mundi:
世の罪を取り除く神の子羊よ、世の罪を取り除き賜え

Agnus Dei, qui tollis peccata mundi: dona eis requiem.
世の罪を取り除く神の子羊よ、彼らに安息を与え賜え

動画では「神」の字に旧字体が使われてます。このセンス、素敵です。…しかし続いて。
           
Lux aeterna luceat eis, Domine: cum sanctis tuis in aeternum,
主よ、彼らを永遠の光で照らし賜え、聖者達と共に永遠に

quia pius es.
あなたは慈悲深く在られるのだから


あなたは慈悲深く在られるのだから

 この一節に、後頭部を殴られたかのような衝撃を覚えました。こんな訳、見たことない。何故だか震えが止まらない。

 私が初めて歌った記念すべき、フォーレのレクイエム(楽譜:全音出版)の歌詞対訳は、今手元になく覚えていませんが、こんな言葉ではありませんでした。
 シューマンのレクイエムのCDのスリーブでは
「これおんみは慈悲深くいませばなり。」
 いろいろ検索したところでは、
「なぜならあなたは慈愛深い方ですから。」
「慈悲深き主よ」
「なぜならあなたはいつくしみ深い方ですから。」
「あなたは慈悲深くあられるのですから」これはちょっと近いかも。

 かつての自分はフォーレをどう歌っていたのでしたか…ただ

quia(ゆえに)pius(優しさ、慈悲深さ)es(あなたの)

 とだけ理解して、そのまま「あなたの慈悲深さゆえに」と取っていたのでしょうか。あの時、習い始めた時十八で、ステージに上がった時十九だった私は全く考えようとはしませんでした。何故この一見優しい言葉が、あのような旋律で歌われるのか。一度目は切実に問いかけるように、二度目はまるで絶望の叫びのように。

 モーツァルトのレクイエムの「Agnus Dei」はモーツァルトの作品ではありませんが、「Kyrie」をそっくりそのままコピーした二重フーガと、捻れながら上昇しつつ低声部から高声部へと受け渡されていく(まるで天に届かせようとするかのように)「cum sanctis tuis in aeternum」の果てに、ただ一度だけ全声で歌われる「quia pius es」、あれは覗き込んではならない深淵のようでした。
 知る限りシューマンのレクイエムだけが、字面通りの優しい光として歌われていました。かつては好きだったそれが、自分の中で急速に色を失っていくのを感じます。

あなたは慈悲深く在られるのだから

 何故、この一節のこの訳をこれほどまでに恐ろしいと感じるのでしょう?

 かつてこんな文章を書いていて、反語というものが疑問文の形を取った強い否定であるように、烈しすぎる否定というものもまた問いかけの一つの形なのではないかと考えたことがあります。
 この一節のこの訳にも似たようなことを感じるのです。見た目の構文が語る以上のものを訴えているような気がするのです。

            あなたは慈悲深く在られるのだから。

            あなたは慈悲深い筈なのですから。

            あなたは慈悲深いのでしょう?



            あなたは慈悲深くはないのですか?



 今自分がこの訳に突き付けられていることは、もしかしたらラテン語の原文では自明のことだったりするのかもしれません。
 イスラム教の聖典「コーラン」は、本当は翻訳してはいけないと言います。御言葉を正確に翻訳するということは、不可能なのでしょうか?実際、日本語の愛はloveではないし、正義はjusticeではないように。
 実は「quia pius es」という言葉が語るのは「あなたの慈悲深さゆえに」などという意味ではなく、そのことを、ラテン語を操り神の言葉を説く人達は、僧侶達は、神学者達は、とっくに承知だったのでしょうか?

 神が、本当は、(恐ろしくて言葉にできません)ということを。

 それはラテン語を教養の基礎におく欧米の知識人達にとっても、例えば作曲家ガブリエル・フォーレにとっても承知のことだったのでしょうか?あの言葉がああまで絶望的に歌われるのはそれ故ですか?

 自分は、何を歌ったつもりでいたのでしょうか。

 私は生物学を、進化論を勉強する為にキリスト教を棄てた訳ですが、そうでなかったとしても遅かれ早かれ、「全知全能にして慈悲深き神」などという矛盾した存在には耐えられなくなっていたでしょう。
 もし生物学者達が間違っていて、造物主たる神が実在したとしても、私はそれを畏怖しません(作ってくれてありがとう、と感謝はするかもしれません。産み育ててくれた親にするように)。さまざまな物語に登場する、神を名乗る怪物達に対してもまた然り。

 ですが、先に私が言葉にできなかったことを認識(グロク)(注)した上で、それでもなお神を信じるという人達を、私は心から畏怖します。畏怖しつつ後ずさり遠ざかります。私はあなた達に近づくことはできない。私は神を信頼することができない=神と「囚人のジレンマ」を競う気にはなれない。

 そして我が師達、私に前節「『囚人のジレンマ』が語るもの」で語ったことを悟らせてくれた生物学者達に心からの感謝の手を差し伸べます。教えてくれてありがとう。人が慈悲の心を持つのは、神様が与えてくれたからではなくて、ただ合理性を、利己性を追求した先の帰結であることを。

 やっと震えが収まってきました。お風呂入って落ち着いたら投稿するとしましょう。

3/29付け足し:お店で全音のフォーレクの楽譜を立ち読みしてきました。「quia pius es」の訳は「慈悲深き主よ」でした。今の自分が歌うなら、込める気持ちは「慈悲深く在れ」
 文法無視。命令形。神に向かって命令形。

 あ、でもレクイエムの歌詞って結構命令形ありましたね?「主よ」とか「〜賜え」とかついてるから謙ってるように見えるだけで。


(注)認識(グロク)する」とは:R.A.ハインラインが『異星の客』の中で創作した造語。対象を、言葉や理屈ではなく肚の底から理解する、納得する、と言った感じの意味。…で正しいのだろうか。実は自分も「認識(グロク)する」という言葉を正しく認識(グロク)できているのかどうか自信がありません。まあフィーリングで。

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