2014年3月21日金曜日

火傷

二つ前のエントリ「戦う性」の内容を考えながら、
男性というものの本質的な哀しさを思いながら
上様の好物の回鍋肉を作っていたら、
過熱したフライパンの縁に左手首が当たって火傷をしました。

一瞬だったし、大したことないだろうと思って
水で冷やすなどの処置をしないでいたら結構深い傷になりました。
一週間以上たった今でも、抉れた傷に触ると痛いです。

不注意で火傷をしたことと、その時思っていたことが
直列で繋がる訳ではありませんが、
なんとなくその傷を眺めていると
上様を慰撫するために傷を負ったかのような錯覚と
そのことへの奇妙な満足感に似た感情がふとよぎります。

誰かを想うあまりリストカットする人の心境ってこんなもの?

や、わざとやったら病気ですけども。
あくまで事故の結果にちょっと妄想してみました。ははっ。

2014年3月14日金曜日

100パーセントの感傷

 ホワイトデー三話の最後。二話までは男性って哀しい、という話でしたが、今回は「羨ましいっ、妬ましいっ!」と叫んじゃいます。

 働いていた頃、労働組合の集まりかなんかで、セクシャルハラスメントや男女差別を受けたことがないか、しつこく聞き取り調査されたことがあります。何もなかったので何も答えようがなく、うんざりしながら職場に戻ってふと思いつき、同い年の同僚に聞いてみました。

「男に産まれてきたかった、って悔しい思いしたことある?」
「ないね」即答する彼女。
「私はあるよ」
 にやりと笑って、
「ものすごーく上手い男声合唱を聴いた時」
「座布団一枚!」

 混声合唱をやっていた大学生時代、近隣の男声合唱団の演奏会にも欠かさず足を運んでいました。また、混声合唱団内でも、有志で内輪で男声のみで歌ってたりしたのを間近に聴きました。混声合唱にも、女声合唱にもない何かがそこにはありました。
 なんだろう、この感じ。声質の揃っていること。それでいて、混声に劣らない音域の広さ。いやそういう技術的な問題ばかりではなく。
 もともとは混声合唱向けに作られ、後に男声合唱に編曲されたバージョンを聴いてもさして物足りなさは感じない。なのに、数は少ないけれど男声から混声に編曲された曲を歌っても、何か違う、何かおかしい。どうして。

(毎度横道にそれますが、中学一年の間だけいた学校の合唱部は女子しかいませんでした。でも混声合唱曲歌いたいね、てことで、男声部をオクターブ上げて女子が歌ってました。当時の私はばりばり高音が出たので、テナー歌ってたことが多かったですね。『海の歌』の「海の匂い」とか、『土の歌』の「大地讃頌」とか。
 その年のNHKコンクールの前、声出しのために広場で適当に「大地讃頌」を歌ってました。もちろん無伴奏で。それを聴いた他校の先生から「いつ『土の歌』の女声版が出たのですか?」と聞かれたそうです。それなりに決まってたってことでしょうか)

 いくつもの男声合唱曲を聴いていて、これは絶対に混声や女声では表現できないだろう、と思わされるものが数多くありました。
 演奏会後のアフター(ステージがはねた後、ロビーや屋外で観客の間近で歌われるアンコール)の定番、「ウ・ボイ」「斎太郎節」「Ständchen」「雨」、いずれも男声の世界です。「シーシャンティ(海の男の歌)」、「吹雪の街を」、ああもう数え上げればきりがない。
 何が違うの?どうして女の声はここに入っていけないの?と長年思ってきたんですが。

 三好達治作詩、木下牧子作曲『アンファンス・フィニ(過ぎ去りし幼年時代)』という男声合唱組曲があります。この第一曲「アンファンス・フィニ」の冒頭のヴォカリーズ(歌詞なしで、Ahなどで歌われる部分)が好きで好きで、ほとんど暗記しているそれを脳内で再生していてふと思いました。

1分間試聴、冒頭のヴォカリーズは入ってます)

(こちらは最後まで聴けます)

 また話が飛躍しますが、いわゆる薄い本を作る乙女達は何故ボーイズラブに走るのだろう、という疑問が同時に解けました。混じりっ気なしの、100パーセントの感傷がそこにあるからです。
 女は、いかに感傷に溺れようとも、必ずどこかに現実味、生々しさを残した生き物です。だから、完全な感傷の世界に浸りきるためには男同士でくっつけるしかないということなのでしょう。
 歌声もそうなのです。女声の持つ血の匂いが、男声合唱の純粋な世界を穢してしまうのです。悔しいことに。

 負けっぱなしというのも悔しいので、じゃあ女声もしくは混声でしか表現できないものって何よ?と思案中ですが、一つの答えは「狂気」です。女声は狂っても美しく在れる。しかし男声が狂う時、それは音楽ではなくなってしまうような気がします。
 文学や演劇にもそんなところないでしょうか?狂えるオフィーリアは美しい。しかしリア王の狂いぶりは見苦しい(と私は思います)。

 ひとつの例として、大手拓治作詩、西村朗作曲の女声合唱組曲『秘密の花』の「ゆびⅡ」(原詩タイトル「頸をくくられるものの歓び」)を挙げてみます。男が恋人に向かってこう請うのです。

            あなたの ゆびのなぐさみのために
            わたしのほのじろい頸をしめくくつてください。

            あなたの美しい指で わたしの頸をめぐらしてください。

 妖しく美しい曲想と和音の中でその願いは叶えられ、歌は一旦死を迎えます。しかし続いて、この上なく美しい旋律に乗って清らかな天使が舞い降ります。

            (わたしの頸は)
            あなたの きよらかなたましひのなかにかくれる。

 これでハッピーエンドかと思いきや、清らかな旋律は徐々に狂気を帯びていきます。天使が狂って堕ちていくのか、それとも恋人を絞殺するという行為が至高に高められていくのか…上下の感覚を失った酩酊状態の中で曲は終わります。あくまでも美しく。

 これ、もしも男声合唱で表現されちゃったら立つ瀬ないなあ。西村朗氏の大手拓治三部作のあと二つ、『まぼろしの薔薇』『そよぐ幻影』は混声で書かれ、前者は男声版も出ているそうですが、どうかお願いしますよ西村先生。


(参考サイト:日本詩人愛唱歌集様

2014年3月13日木曜日

戦う性

 ホワイトデー三話の二話目です。

 年末年始、映画『永遠の0』にはまりました。原作は既に読んでました。原作の魅力的な要素がいろいろと割愛されているという批評もあり、それにも同意する部分はあります。しかし映画には映画ならではの演出、表現が見事に活きており、名作だと思います。

 いい映画を観た後って、必ず「もう一回観に来よう」と思うものですが、実際にそうしたのは『マトリックス』『グラディエーター』『スターリングラード』に続いて四作目です。『マトリックス』『スターリングラード』は二回観たときの同行者が違ったので、ついでという感じでした。一人で二回観たのは二作目ですね。

 二度目のときは、一度目とは違うところに着目するものです。「永遠の0」の場合、岡田准一演じる主人公、宮部久蔵の顔をひたすら見てました。特にあのファイナルカット、あれこそは小説では表現し得ない、映像の凄みですね。スクリーンいっぱいに写し出される、敵空母の艦橋に激突しようという瞬間の、宮部の顔のどアップ。

 一度目は、その眼だけに吸い寄せられていました。しかし二度目で、顔全体を見ていて気が付きました。最後の瞬間、宮部は眼は真剣なまま、口元だけでニッと笑っているのです。
 多くの特攻機が敵艦に辿り着けずに撃墜されていく中、自分は艦橋に激突するところまで持っていった。やってやった、という勝利の笑み。戦友に向かって、仇は取ったぜ、と言っているようにも見えました。

 その笑顔が、哀しかった。

 ここで笑えるのが男性という性、戦う性なんだ。

 原作でも映画でもしつこく語られているように、宮部は決して好戦的な人間ではなかったのです。「家族のために、生きて帰りたい」と強く願っていたのです。それが何故特攻しちゃったのか、それはこの作品のネタバレなので避けますが、それでも、それなのに、ここでこうして笑えるんだ。

 と言いながら次はネタバレ全開で語ります。
 ゲーム『ゼノサーガepisodeⅡ―力への意思―』のラストバトルは、兄弟同様に育った二人の男の死闘、殺し合いです。自分でプレイした訳ではないので詳しくは知りませんが、二人とも普通の人間ではなく、戦うために作られた存在です。
 決着がついた後、破れて死に瀕した敵方は、勝利した主人公側にこう語ります(記憶曖昧)

「楽しかったろう」
「ああ。…それは俺たちが機械だからなのかな」
「違うな。男だからだ」

 そこで「楽しい」と思えるのですね。それがあなた方という存在なのですね。

 死に方にもよりますが、緩慢な死に瀕した人間の脳には脳内快楽物質が分泌され、幸せに、苦痛を感じずに死んでいけるといいます。
 前節「雄性の復讐」で語ったように、雄は戦って、多くは子孫を残せずに死んでいきます。彼らは、それでもそこに楽しさを、充足感を抱いているのでしょうか。コンバットハイ?脳内麻薬?それは哀しい命に対する自然界の贈り物でしょうか、それともただの欺瞞でしょうか。
 いや、自然は「欺瞞」などをはたらきませんね。やはり贈り物なのでしょう。なんて残酷で、なんて優しい。


 そんな気持ちを抱きつつ、これ書いた日は旦那の好物を作ってました。

2014年3月12日水曜日

雄性の復讐

 今度はホワイトデーを前に、女性である私から見た「男性」というものについて語ります。
 昔、やはりこれとは異なるブログで書いたことを、よりわかりやすく書き直してみました。

 男女差別とか、セクシャルハラスメントとか、女性の社会進出とかいう言葉を耳にする度考えました。人間社会は男性優位に作られていると、大多数の人は考えているのだなと。きちんと調べたことはありませんが、私が目や耳にしたどんな部族や民族の慣習や風習や宗教においても、「男性は女性より偉い」「女性は男性に従属すべきである」とはっきり明文化されたものは数あれど、逆を聞いたことはありません。何故なんでしょう?

 以下しばらく、***まで、生物学の基礎知識がある人は読み飛ばしちゃってください。

 地球上に生物というものが生まれ、進化していった過程について、なるべく簡潔に語ります。
「進化」というものは、親から子へ受け継がれるDNAのコピー時に偶然「間違って」生じた変化のうち、より生存に有利な結果を生じた変異(変化)の蓄積です。ある個体ではより速く走れるようになる変異が生じたとする。また別の個体ではより頑健な体を作る変異が生じたかもしれません。変異によって有利な体を得た個体は、他の個体よりも多くの子孫を残していったことでしょう。

 どうせなら、別々の個体に生じた、より速く走れる遺伝子と、より頑健な体を作る遺伝子が一緒になったら、さらに有利になりますよね?だから、子孫を残すときに、他の個体と遺伝子の交換、パートナーチェンジをしてみようよ、てことになりました。そして、子孫を残すにあたって二つの個体が遺伝子を半分ずつ混ぜ合わせる、有性生殖というプロセスが発達していきます。

 カタツムリなど、一部の生物は性を持ちません。雄も雌もなく、互いに平等に配偶子(ありていにいうと、これが二つ合体すると受精卵、新たな命の元になるもの)を交換します。
 しかし多くの高等動物は、より効率よく配偶子が出会う機会を作るために、二つのタイプの異なる配偶子を作り出しました。
 一つは、大きくたくさんの栄養を与えられ、それ故に作られる数は少なく、運動もほとんどできません。これが雌性配偶子、卵です。
 もう一つは、小さくほとんど栄養を持たない代わり、数多く生産され、運動性に優れ、もう一つの配偶子を探し求めます。これが雄性配偶子、精子です。

 卵も精子も、お互いに出会って受精しなければ新たな命となることができません。しかし精子の数に対して卵の数は限られています。大多数の精子は受精することなく死んでいく運命にあります。
 卵を作る方、雌は、数に制限はあっても、自分の生んだ卵をほぼ確実に受精させ、子を誕生させることができます。
 精子を作る方、雄は、雌が作る卵の何倍もの精子を作ることができます。なんとなれば、ある一匹の雄が他の雄を蹴散らし、周辺の雌の卵を独占して自分の子孫だけを繁栄させることもできてしまいます。そして、蹴散らされた雄は子孫を残すことなく虚しい生を終えていきます。

 もちろん雄も育児をする必要があって一夫一妻性をとる動物も数多くいます。しかし産みっぱなしの動物や、一夫多妻性の動物においては、多くの雄が戦いに破れ、子孫を残せないまま死んでいくのです。
(動物の配偶システム、雌を巡る争い、多くの例外など面白い話は語りだすときりがないので、ここではやめておきます)

 雌は、生殖年齢に達するまで生き残りさえすれば、自分の身の丈にあっただけの子孫を残すことができます。しかし雄は戦って勝利しなければ子孫を残すことができずに無駄に死んでいきます。
(ならば雄の子よりも雌の子を多く産んだ方が、より多くの子孫を確実に残せるんでは?という疑問がわくでしょう。理由はここでは割愛しますが、答えはノー、雄の子と雌の子を11で産むのがたいていの場合最適戦略なのです。雄は余る運命にあるのです)

***

 雄は戦う性、大多数は戦って無駄に死んでいく性でした。ただ生き残る能力なら雌と同等かそれ以上であっても、子孫を残して生を全うするのはほんの一部。優れた雄を選び、試し、尽くさせたあげく確実に自分の子孫を残せるのはたいがい雌の方。同じ種の生命として産まれてきて、こんな不公平な話はないと思いませんか?

 一見話飛びますが、人間に限らず、動物の群れ社会においても、その成熟度って弱者に対する保護や扶助の度合いによって計られると思うのですよ。子供、老人、障碍者、人間社会において二次的に弱者にされた女性などに対する。

 さて最初の問いに戻ります。
 なぜ原初の人間社会は、多くの部族や民族の慣習や宗教は、こぞって男性を女性より優位に置いたのでしょうか。

 私はこう考えます。
 人類が発生し、それが公平な社会を目指し(完全な公平に辿り着く日が来るのかはわかりませんが)成熟するために、まず最初に救済しなければならなかった最弱の存在は、男性だったからです。
 不平等な動物の雄と雌が、平等な人間の男と女になるために、最初にしなければならなかったのは、ずっと哀しい性だった雄を、「偉い」男に格上げすることだったんではないでしょうか。明文化された制度によって。後にそれは一部で暴走し肥大化していく結果を呼んだものの。


 そう考えると、人類のたかだか数千年の女性蔑視の歴史は、数億年に及ぶ動物の雄たちの怨念、雄性の復讐…そんなものにも思えてきます。だからといって、男女差別を認める気はさらさらないですし、職に就いていた間中ずっと、そんなことはさせませんでしたけれどね、もちろん。

2014年2月20日木曜日

誰がそれを罰してくれたらう

 合唱曲の歌詞シリーズですが中身は合唱ではありません。とある元生物学生の思索です。

 バレンタイン三話について考えたのがきっかけで、己の過去の罪業がいろいろと立ち現れては心を悩ませています。そんなとき、痛みに浸りたいときは吉原幸子の詩に限ります。タイトルに引用した、合唱組曲『幼年連禱』の歌詞でも有名な詩人です。この人の言葉は時に鋭く、時に鈍い痛みをもって人の傷口を抉ってきます。

                誰がそれを罰してくれたらう
(『幼年連禱』「喪失」)

 私は生物学、それも動物学を専攻する学生でした。したがって、動物実験は避けて通れませんでした。数えようとも思わないほどの数の動物を殺してきています。
 生物学生でなくても、直接でなくても、他者を殺さずには生きていけません。食べるために。あるいは身を守るために。菜食主義者のあなた、植物には命がないとでも思っているのですか?

 自然界であれば、殺すものと殺されるものとの間には死を賭けた闘争があります。逃げなければ殺される。逃げ切れれば生き延びられる。殺さなければ自分や子が餓死する。殺せば食べて生き延びる事が出来る。
 しかしケージの中で生まれ育った実験動物達には闘争の機会はありません。彼らには生き延びる機会はありません。予定通りに「生産」され、出荷され、ほとんどは未熟な学生の実験のために、あるいは血液や臓器の一部を取られるために、ほんの少数は人類の知識の増大のために、殺されていきます。

 食べるためなら許されましょう。あるいは身を守るためなら。ある実験の目的のために、あえて脊髄を貫かれて殺されるカエルからつい目を背けてしまった私に「ゲームで、カエル型のモンスターと戦ってると思ってごらん」と言ってくれた同級生がいましたが、そのカエルは私の身を何ら脅かしてはいなかったのです。

 自然界でならば、あるいは飢えや寒さに苦しみ、捕食者に怯えながらも自分の力で生きていたはずなのに、自分の体の数倍の大きさでしかないケージの中で、実験動物用フードと水の味しか知らずに、名前もなく、何のよろこびもなく、生まれて殺されていく動物たちを前に、何度も自問しました。
 こんなことは許されるのかと。

                わたしを殺したのなら
                わたしをたべてください
                (『魚たち・犬たち・少女たち』「死ぬ母―さらばアフリカ」)

 食べるためでも、身を守るためでもなく、なおかつ生きるために殺さなければならなかった。それは私たちが生物学生だったからです。人はパンのみでは生きられない。世界に向かって、自分が何者であるかを問う手段として生物学を選んだ人間にとって、動物実験によって知識を得ることは必要でした。
 それでも。

                ただ罰されたいときがある
                罪びとになりたいときがある
                (『幼年連禱』「子に」)

 しかるべき代価を払って生産業者から購入され、私たち学生に与えられた動物を殺しても、誰もそれを罰してはくれません。ならば自分で自分を罰するしかないではありませんか。

「ある生命の価値は、それが失われることによる心の痛みで計られる」

 これが当時の私のテーゼです。自分に与えられた動物にあえて名前をつけ、実験に支障がなければ美味しいクッキーなどを食べさせてやり、「おいしいかい?よかったね。じゃあ、やるよ」とばかりに。自分でその生命に価値を与え、それを奪い取る事で自分が罰を受けるという仕組みです。教室で実験用ラットを殺して帰ったその手で、自宅でペットのハムスターを愛でるという日々の中での逃げ道でした。

 何年も前にも、これとは別のブログでこの事を書きました。その時既に、いやその当時から既に、これが卑怯極まりないことはわかっていました。でも他に一体どうしようがあったのか、とまだその時は叫んでいました。

                ひとつの卑怯。
                罰をなら ひきうけるのに
                罪を ひきうけようとしないこと。

                もう一つの卑怯。
                罰よりも より多く
                罪を ひきうけたがってゐること。

                罰は選べない
                罪は選べる

                さうして わたしたちは選んだのだ!

                私たちは手放す
                筆のため 墨を
                剣のため 弓を

                わたしたちは片手なのだ!

                さう 何かを手放さなければならない

                懺悔を手にするためには 罪そのものを!
                (『昼顔』「共犯」より抜粋)

 自分の体の数倍の広さでしかないケージという世界しか知らぬまま殺されていく動物たちの生命に価値を、意味を与えたかった。

 今なら、それが卑怯であるばかりでなく欺瞞であった事もわかります。自ら罪を科し、自ら罰を受ける、それは酸の杯でアルカリの錠剤を嚥み下すようなことでした。吉原風に言えば

                いつわりの罰を受けるために
                いつわりの罪をつくりあげた

というところでしょうか(どこが?)

 いきなり話飛びますが、PSPでプレイしたゲーム『空の軌跡 the 3rd』の中で、「罰を与える事は、罪人を甘やかすこと」というような台詞が出てきます。安易に罰を求めるなどしてはいけなかったのです。きちんと自分の業を見つめなければならなかったのです。

 実験動物たちにとって、自分を殺す人間が罪悪感を抱いていようがいまいが、自分が何のために殺されるのか、全く関係ないことなのです。
 彼らは殺されるために生まれてくるのです。
 ブロイラーや豚や肉牛と同じように。

 そして私たちは確かに彼らを食べることでその死に報いていたのです。口で喰べるのではなく、眼で耳で手で、彼らの骸から知識を吸収し、精神の血肉と成したのです。私の同級生たちは留年した者はいても全員卒業して社会に出ました。そして何らかの形でその知識を活かしたことでしょう。少なくとも私はそうしました。

 存在しない罪に対する罰を求め続けてきた、ということがこの年になってやっとわかりました。幼かった当時の自分には、その欺瞞は必要な麻酔薬ではありましたが。


 さて、この覚悟を持って、自分の他の罪業にも応用はできるものでしょうか。罪悪感に酔うという悪癖は矯正できるでしょうか。とりあえず今日のところはここまでで。