子供の頃、必ずハッピーエンドを迎える児童文学の世界から、ややリアルな世界へと踏み出し、そこで受け入れがたい経験―感情移入したキャラクターやその近しい人物の死など―に遭った時、熱を出したり吐いたりしていた。もともとストレス性胃腸炎の気味もあり(現在でも同様)精神で受け止めかねたダメージを体に転化するのは楽な逃げ道だった。
少し成長してから、取り込まされて(取り込まれて?)しまった嫌な物語を、自分で改竄してしまうことを覚えた。物語の中に自分の分身を送り込む。だめ、ここでそうしてはならない。私がなんとかします。なんならあなたの盾になって死にます、だからあなたは死なないで。後に書くようになった二次創作文のはしり。
悲惨な運命に向かっていくキャラクターになりきって、それでも自分は幸せだったはずだ、そうでなければおかしい、とばかりに、その「幸せ」を裏付ける設定を、想いを妄想してみたりもする。文章として発表したそれに「自分もそう思う」と共感してくれる人が現れた時、これでもう大丈夫、自分はどんな物語とも折り合える、そんな気がした。
しかし今回はそれはやってはいけないのだと思う。
伊藤計劃「ハーモニー」。一度読みかけながら途中で放棄してしまった作品。あれは敵前逃亡だった。駄目だ、自分はこの物語には勝てない、子供の頃みたいに具合悪くなるだろう。途中からそんな予感がしたのだった。
ネタバレは避けているのでわからないけれど、たぶんこの物語はいい意味で私の期待を裏切るハッピーエンドにはならないのだろう。それに潰されてしまってはならない。主人公始め、いかなる人物にも感情移入せず、純粋な読み手として「彼女」いや「彼」の亡霊に勝たなければならない。
できるんだろうか。できるできないではなく、やらなければならないんだろう。しっかりしろ、自分の人間観を、世界観を見失うんじゃない。必ず勝て、自分。
そのために一つ手段を講じた。読み進めながらリアルタイムでその時点での感想を言葉にし、読書メモを綴っていくこと。言葉に与えられた動揺を言葉にすることで対抗すること。
「積ん読」山脈の中からやっと「ハーモニー」を見つけ出して、埃に咽せながら読み始めている。まだ冒頭、女子高生のトァンの回想。
01-02
いつも物語を読むときは、積極的にその中に入って行こうとするし、物語もこちらを吸いこもうとするのを感じる。だけど今回はそうしてはいけない。なおかつ物語についていかなくてはならない。「自分」と「物語」の間を隔てる防護壁として、私は彼女らと同じ十五歳の自分を行間に幻出させる。
きれいで思いやりに満ちあふれたセカイを憎悪するミァハ。
汚く残酷な世界を、そう憎悪していたかもしれない十五の自分。
大昔には「いじめ」なんてものがあったらしい。(p23)
確かに私たちの教室にはそれがあった。新聞やTVが伝えてくる世界の醜さ以上に、私は自分を取り巻く社会としてのそれを憎んだ。教師達は無力だったが、それを恨もうとは思わなかった。むしろ同情さえした。殴られて当然のことをしでかして、自業自得で殴られ、怪我をした屑に謝罪しなければならなかった教師の無念を思った。悪いのは奴らなのに。
私たちが大人になる時、同時にこの連中が大人になる時、社会はどうなってしまうのだろう。自分がなんとかしなくては。当時のサブカルチャーを席巻していた世紀末思想、ボタンの押し間違い一つで、明日にも人類が滅びてしまうかもしれない全面核戦争の脅威もさることながら、そんな憂慮をしていたっけ。
「オトナたちは、それまで人間が分かちがたい自然の産物と思ってきた多くのものを、いまや外注に出して制御してる。―」(p33)
病気になる自由、堕落する自由、人を傷つける自由、そんなものを奪われたことに憤るミァハ。ここで十五の自分はいったん口ごもる。しばし考えて、こう口にするだろう。
「そうしたければ、勝手にしなさいよ。ただ、私たちに迷惑かけないで」
01-03
いまやタバコを隠れて吸うには、学校のトイレどころか戦場までやってこなければならないということ。それを情けないととるか、ちっぽけな愉しみに命を張る大馬鹿ととるかは、あなたの自由。(p43)
未成年は別として、私が子供だった頃はタバコを吸うのは「自由」な行為だった。自分自身はもちろん、副流煙で他人の健康も損ない、自分の損なわれた健康をも国の医療費で治療してもらう自由。失われておおいに結構。今や狭苦しい「喫煙室」に閉じ込められているあなたがたのお愉しみにまで口出す気はありませんわよ。
その意味でも十五の自分とトァン達には共通点がある。世界に対する憎悪と、自分や家族や友人達以外の「他人」は放っておけという考え。目の前にミァハがいて、自殺しようとしてもきっと止めなかっただろう。
「そうしたければ、勝手にしなさいよ」
01-06
デブデブ百貫デブ、という歌が昔はあった。(p82)
「昔の人の想像力が、昔の文学や絵画が、わたしはとってもうらやましいんだ、トァン」(p85)
「誰かを傷つける可能性を、常に秘めていたから。誰かを悲しませて、誰かに嫌悪を催させることができたから」
(p86)
何がしたかったの、御冷ミァハ。もう「勝手にしなさいよ」とは言わない。あなたが無差別に傷つけたい「誰か」のうちに、私の大事な人が入っているかもしれないなら、そんな行為は認めない。
02-01
人間は何か大切なものを破壊する力を秘めていること。(p115)
02-02
個人情報がレッテルのように表示され、いつでも誰でも閲覧できる世界。優しさと思いやりに支配された世界であっても、それは確かに息苦しそうだ。
「私たちは皆、世界に自分を人質として晒しているんだね」(p132)
そんな感想も無理からぬことだろう。私たちの「危険な」世界においては、皆必死で個人情報を守っている。実際、電脳空間で親しく付き合っている相手の大部分の、本名ですら、知らずにすんでいる。それでなんの不自由もない。
ただこんなことがあった。ある場所で、(的外れな)怒りにかられて喧嘩をふっかけてしまった時、私は私の怒りがどれだけ本気であるかを示すために、その文章の中で、攻撃手段として自分の本名と職業を明かしたのだった。幸いそれはごくプライベートな場所で、参加者は皆(私を除いて)良識ある人で、知る限りではそれは外部に流されてはいない。ついでながら私の的外れな怒りの元となった誤解は解け、謝罪は受け入れられ、その相手とは後にいい友人になった。
私が自分の個人情報を「武器」として使えたのは、それが通常は隠され保護されているからである。匿名で無責任に放たれる言葉と違い、リスクと覚悟を背負った言葉だ、それに反論する勇気はあるか、とトリガーに指をかけながら言うことができたのは自分の名前が自分のものであったからだ。
全てが開示された世界では、それもままならないのだろう。自分で自分を人質に取る自由、それは奪われているのか抹消されているのか。
まさか薬漬けにされて親兄弟を「かかし」代わりに射的訓練をやらされる子供兵の話でもしろというのだろうか。薪のように積み上げられた血まみれの腕や脚の話をしろとでもいうのだろうか。(p88)
地獄のような場所から命からがら逃げてきたというのに、御冷ミァハはそれでもこの天国のような生府世界――天国の紛い物のような世界を憎んだのだ。(p139)
「わたしたちの、いいえ、生府みんなの想像力の外で、ミァハは苦しんでいたんです。わたしたちが想像することも感じることもできない理由に苦しめられて、声なき叫びをあげていたんです」(p141)
「生府」ご自慢のセラピーとやらは、ミァハを癒すことはできなかったのか。想定外過ぎたと言うことなんだろうか。可哀想な子。
体の健康のみならず、精神の自律性さえ外注に出してしまって平気な世界。たしかにそんな人間にわかるはずがないだろう。(私も精神安定剤は服用しているけど、その都度それを決めるのは自分の意思なのだから)
02-03
「科学者というやつはそういう目的を持って研究はしないと思うよ。何をやりたいか、なんて考えてはいやしない。そこに山があるから、みたいなもんだ」(p174)
多くの真面目な科学者は反論するかもしれないが、人と科学の本来の関係ってそうだろうと思う。私が生物学のためにキリスト教を棄てた時、神の与えたもう恩寵に代わるものを生物学が示してくれるとは夢にも思っていなかった。ただ知りたいから、それだけで神の居ない世界へダイブしたのだった。
あなたはどうなのですか、霧慧ヌァザ。
「わたしは多分、バランサーを気取っていたのね。―」(p150〜)
―零下堂キアンは、あのとき間違いなく「大人」だった。(p151)
うん、ごめんね、ミァハ。(p183)
謝ることなんてない、読んでる最中の今はまだ判らないミァハそのものなのか、その亡霊なのかに対して謝ることも「勇気を見せる」必要もないのに、なぜ。
現時点でも、以前放り出してしまったときも、私はミァハの声を怖れない。ただ、糾弾する。
何故キアンを殺したの。
03-01
ボイスメッセージと、キャスターの死。確か以前放り出してしまったのはここだ。ツイッターで「この話は心理的スプラッタだ」と呟いたことがあるがそれはもちろん眼球や脳漿の描写のことではない。「体内にあって生命活動を支えてくれているけど、目の当たりにすると嫌悪を覚える臓器というものの精神版を、掴み出して目の前に突き付けてくる」ことを指したのだ。
これから一週間以内に、誰かひとり以上を殺してください。
手段は何でもかまいません。
自分自身のためならば、他者などどうでもいいということを証明してください。
いちばん大切なのは自分の命だという感情を、解放してください。(p204)
大丈夫、今の自分はこう言える。
その通りだよ。それが人間だよ。確かにこの世界の人間はそれを忘れている。自分の肚の中にあるものを見ようとしない。
でもそれでいいとは思わないの?一部のマニアでない限り、誰も好き好んで内臓なんて見たくない。見なくたって生きていける。何故あなたはそれが許せない?
何が選別か。新しい世界か。ただの人殺し。自分がそうであるばかりか、人々にそうなるよう強制すること、それもまた生きたい人々の自由意志を奪う行為ではないか。
私は知識を得るために動物を殺した。守りたい人のために別の人達を大勢傷つけた。いずれも喜んでやったことじゃない。でも誰に強制されたものでもない。そう命令するような存在を、私は認めない。
大丈夫。先へ進める。でも今日はここまでにしよう。
03-02
「フィクションには、本には、言葉には、人を殺す力が宿っているんだよ、凄いと思わない」(p224)
03-03
「意識と現実は同じような意味じゃないでしょうか、霧慧監察官」(p235)
「我々が持ち得る現実など、結局は意識に限界づけられているのですから」(p236)
03-05
「人間が再び非合理的な混沌に還ってしまうことのないよう、セーフティネットを設定しなければならない」(p254)
「考えてみたまえ、人間が身体を日々医療分子によって制御し、病気を抑えこんでいるというのに、脳にある『有害な』思考は制御してはならないという理由があるのかね」(p256)
人々の脳を、意識を操作できる世界。押し付けられた公共性、思いやり、リソース意識。確かにそれは間違っている。故に間違った憎悪を呼んだのか。
愛なんてまっぴらだ。
思いやりなんてまっぴらだ。
リソース意識なんてくたばるがいい。(p258)
哀れな子供達。あなたがたが憎むべきは「愛」や「思いやり」そのものではなかったのに。あなたがたからそれを奪い、代わりに紛い物を押し付けた連中に対抗するために、自死しか選ぶことができず、その結果―
生来意識のない民族。それは実在するのだろうか。またそのような状況下において、意識をエミュレートする必要がどこにあったろう。意識のないままならそれで良かったろうに。
憎悪するために意識が欲しかったの?
その憎悪をみんなと分かち合いたかったの?
可哀想な子。
何故私にあなたを哀れむ資格があるのかって?そんなことに資格なんていらない。人間生来の資質なのですよ。持てるものが、その気になれば与えて救うことができる持たざるものを哀れむのは間違っている、でも私が持っているものをあなたに与えることはできない、だからただ哀れむことしかできない。可哀想な子。
04-03
進化は継ぎ接ぎだ。(p325)
もちろん私もそれをよく知っている。作中では糖尿病が例に挙げられているが、鎌形赤血球異常症は、マラリアが蔓延する土地では必須だった。だからマラリアがない土地に拉致された黒人達の遺伝子プールからはそれは消え去っていった。
痛みという感覚は、脳に警告し身体を危険から遠ざけるためにある。それが必要とされなくなるような医療の進歩がありうるのかはわからない。
糖尿病がそうであるように、感情の実用的な耐用年数がとっくに擦り切れていたら。
社会的動物である人間にとって、感情や意識という機能を必要とする環境が、いつの時点でかとっくに過ぎ去っていたら。我々が糖尿病を治療するように、感情や意識を「治療」して脳の機能から消し去ってしまうことに何の躊躇があろうか。(p326)
思いやりは、遵法精神は、よりよい生存のために必要だったから進化してきた。その他の人の感情全てが。それは時として暴走し、生存とは逆の方向へ舵を切ってしまうこともあるけれども、総体としてそれは有効に機能している。事実人口は増え続けている。人類はまだ自らの設計の枠をオーバーしては居ない。私たちの世界では。
しかしここでは、「大災厄」のような混沌を回避するために、必要なら人々の意識のスイッチを切れる世界が提示されている。過激な手段に訴えてそれを破壊しようとするミァハ。自分はそれにどう対する?
この先を読み進めて、主人公霧慧トァンの解答を目にする前に、私は私の解答を用意しなければならない。いつも物語を読むときのように、登場人物と同化することはしないと、最初に決めたのだから。
人が意識を失ったまま自動人間として生き続ける世界。
人が生きるために他人を平気で傷つける世界。
メーターの針はどちらかに振り切れるしかないと、作中で何度か語られている。実際、私たちの世界のあちこちでも、針が後者に振り切れている様が見られる。それを見続けなければならなかった人達が、前者の世界を夢見、実現の可能性を差し出されて実行に移しかけてしまうのも無理はないだろう。
いいえ。
私たちの世界で、今まさに後者の地獄を味わっている人達、ごめんなさい。
メーターの針は確かに振り切れることもあるだろう、しかしそれは永久に振り切れたままでいることはないのだ。
人間の作ったシステムは、例えば核攻撃に対する自動報復措置はやってしまうかもしれない。私たちが子供の頃は、いつ何時ボタン一つの押し間違いで全面核戦争が起こり、人類が滅亡してもおかしくない、皆がそう思っていた時代だった。新聞やTVのニュースを見ない子供でも、あの頃のサブカルチャーがそれ一色だったではないか。「北斗の拳」など例を挙げるまでもない。
だけど、そんな中でも私たちの多くは絶望することも気違いになることなく成人した。人間はあなたが思っていたよりずっとしぶといのですよ、故伊藤計劃氏よ。明日世界が滅びるかもしれない、ということを知りながら食事をし学校に通い花を植えることができる、そういう生き物なのです。
人間はシステムじゃない。そうしようとする試みは何度もあったけれども常に瓦解してきた。振り切れた針は我に帰って元に戻り反動を引き起こす、そして沈静化していく。そしてまた別の場所で爆発が起こるかもしれない、それでも人類総体は生き延びてきた。「世界大戦」と呼ばれる戦争も、本当に世界全体を焦土にした訳ではない。外から制御しなくても、人にはちゃんとブレーキが付いている。ちゃんと人間を観察していれば、人の手による人の皆殺し、「大災厄」は起こりえないとわかりませんでしたか?
混沌を回避するために人の脳をコントロールするシステムなど必要ないし、まず実現しようがない。しかし現に実現しかけてしまった世界を破壊しようとする御冷ミァハ。
本当に、人に人を殺すことを強制することでしか、それは破壊し得ないの?
あなたの知識なら、そうせずにシステムを破壊することもできるのではないの?
何故そうしないの?
それは結局あなたの憎悪、復讐感情が成せることなのだろうか。そうだとしたら、やっぱりあなたは可哀想な子なのだ。意識のない恍惚とした世界に還りなさい。私たちに迷惑をかけずに。
だって私は、自分たちが生きるためなら他人はどうなったっていい人間だから。
では、ラストに進むとしましょう。
かつて人類には、わたしがわたしであるという思い込みが必要だった。(p326)
04-04
「この世界を憎んでいるから、この混乱を引き起こした訳じゃないのね」
「うん。私は愛してる。この世界を全力で愛してる――すべてはこの世界を肯定するため。すべては『わたし』に浸食される世界を救うため」(p341)
可哀想な子。
「わたしは、毎年無為に命を落としていく何百万の魂のために、魂のない世界を作ろうとしたの」(p346)
なんて、可哀想な子。でも私は泣かない。トァンが泣いてくれているから。
トァンはミァハに「復讐」することで、人類の意識を葬ってしまったのだろうか。他の選択はできなかったのか?ミァハを引きずり出して、「一週間以内に人を殺さなかった人達を殺す」プログラムを解除させ、老人達にハーモニー・プログラムを発動させない、そんな選択肢もあったのではないか。そしてミァハだけを望み通り、意識のない世界に送り出してやれば良かったのではないか。
異議は、ない。(p348)
おおありです。
「あなたの望んだ世界は、実現してあげる。
だけどそれをあなたには、与えない」(p350)
そんなにキアンを、父を、ミァハを愛していたの、トァン。
目論み通り、誰にもほとんど感情移入することなくこの物語を読み終えた私には、彼女の行為に対する否定的な感想しか湧いてこない。もし感情移入していたら、トァンに共感していたら、絶望していただろうか?思い余って、想いのない世界を実現することを選んでいただろうか?
とここまでを読み返してみる。それでもやはり否定できたはずだと思う。心の中に呼び出した十五の自分も、今の自分も、どの時点での自分も一致して答えるだろう。
否、と。
しっかりしろ、自分の人間観を、世界観を見失うんじゃない。必ず勝て、自分。(当読書メモp1)
「勝つ」とは?この物語が投げかけてくる絶望に飲み込まれないこと。どうやら成功したようです。
三年前になるのかな、文庫206ページで投げ出してしまったのは。あの時の自分と今と何が違うのだろう。少しは自分も心理的スプラッタに、自分の内臓を直視することに慣れたのだろうか。例えばこの場で書き散らしたように。
初めて、共感するためではなく戦うために物語を読みました。なかなか稀な経験です。あんまりしたくはありませんけど。やっぱり楽しんでなんぼですよ、本は。
初めて、共感するためではなく戦うために物語を読みました。なかなか稀な経験です。あんまりしたくはありませんけど。やっぱり楽しんでなんぼですよ、本は。
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