2014年7月3日木曜日

無題

「神」とは何ですか?

 進化論者であり、神を信じないけれども神は実在すると考える私はこう答えます。

 錯覚です。
 晴れた日中に頭上を仰げば、青い空が見えるのと同じくらい錯覚です。
 傷つけられれば痛みを感じるのと同じくらい、錯覚です。

「青い空」が錯覚でしかないことは皆さんご存知ですね。そこにセルリアンブルーの天蓋は存在しません。大気中で、太陽光線に含まれる青い光が散乱する様が見えているに過ぎません。
 そして「青」という色もまた錯覚です。実在するのは450-495nmの電磁波です。それを受け取った網膜の細胞が視神経に伝え、それがもたらした信号が脳に生じさせる感覚が青です。あなたが感じている「青」と、私が感じている「青」が同じ感覚であると保証するものは何もありません。

 傷が痛いのも錯覚です。傷は痛みません。その場所の痛覚受容器が神経に伝えた信号が、脳に到達して感じさせるものが痛みです。傷の痛みがその人に取って紛れもない現実であることは、否定しませんが。麻酔薬は素晴らしい発明です。

 私の世界には神は居ません。仮に全知全能で、人や世界を創造した存在がいたとしても、私はそれを畏怖しないし、心を預けたり命を懸けることはしません。

 しかし世界中の少なからぬ人は、程度の差こそあれ神を信仰し、その存在を信じています。個人個人の問題ではなく、古今の多くの国、多くの民族には宗教がありそれぞれの、さまざまな神がいます。統計的に考えて、それは偶然ではないのでしょう。人間が神を求めるのは普遍的なこと、人間の本能なのでしょう。

 なぜ人間は本能的に神を求めずには居られないのでしょう。

マキャベリ的知性と心の理論の進化論」という書物があります。内容は難解なので説明は割愛します。結論から言うと、人間を含む霊長類の知性は、道具を作り利用する能力として進化してきたのではなく、群れを構成する他の個体との関係、お互い協力したり、利用したり裏切ったりしながら、自分の有利に生存を続けて行くために発達したものである、というのです。

 人と、他の霊長類やまた別の動物の知性の差異を比較するとき、人間にあって他の霊長類にない性質としてまず目につくのは、人はさまざまな道具を作り使うことで、自らの生存を有利に運んでいるということでしょう。

 だから昔の類人猿学者は、類人猿の知性を、道具の利用能力で測ろうとしました。手が届かない高さにバナナを吊るし、回りには木箱、棒などの道具を置いておきます。チンパンジーはそれらを使ってバナナを入手できた。しかしリスザルなどの原猿類にはできなかった。故にチンパンジーの知性の方が優れている。そんな考えが長らく支配的でした。

 しかし違うのです。道具を使うことはできなくても、原猿類は群れの仲間と高度なコミュニケーションを行う知性を備えていました。自分の有利な生存の為に、時には協力し、恩恵を施して好感を得、またあるときは自分の目的の為に利用し裏切り、さらには近づきたい異性にアプローチする為にライバルを排除させたりなどということまでやってのけていたのです。バナナを手にする為に木箱や棒を利用する、などとは全く違う知性が、類人猿の知性の起源だったと語るのです。

 知性とはもともと、自分と同じ心を持つ相手との相互関係を築くためのものだった。贈り物をすれば好感を持ち、乞い願えば自分の為に働いてくれ、裏切れば罰をもたらし、謝れば許してくれる、(言語でなくても)話せばわかりあえる、そんな存在が、知性の対象でした。

 そうだとすれば。

 発達した知性は、その、他個体に対する「話せばわかる」という考えを、無生物である自然界にも適用してしまった。貢ぎ物(贈り物)をすれば好感を持ってくれ、祈れば(乞い願えば)望みを叶えてくれ、罪(気に触ること)を犯したなら罰を受けることで許してくれる、そんな存在が、目に見えなくても存在するのではないか。

 そのような錯覚、思い込みが「神」の起源だと私は考えます。

 私は神を信じません。仮に神の存在を目の前に突き付けられても、それに「trust」や「belief」を置くことはしません。
 私の考える「trust」とは「囚人のジレンマ」を共にプレイできる、協調してお互いの利益を追求して行ける、そういう信頼です。
belief」とは「Belief」で語ったような思いです。あるいは5月に書いた小説の登場人物にこんな台詞を言わせています。

「真の信頼とは、この人は絶対に自分を裏切らないだろう、という思い込み、盲信のことではありません。 この人が自分を裏切るとしたら、それはよほどのことあってだろうから、何であれ自分はそれを受け容れ、赦すだろう、という覚悟のことです」 
 私がbeliefを置いて、財産や心や、あるいは命を預けた結果が「外れ」であっても、そうした相手を恨むことはしません。

 神なる存在にtrustbeliefを置くことは、何かを預け委ねることはできません。畏怖することもしません。「quia pius es」で語った通りです。

 しかし世の中には、その時点の私が恐ろしくて言葉にできなかったこと、神は本当は慈悲深くも何ともない、祈りを聞き届けはしない、全知全能でもないということを理解した上で、それでもなお神を信じるという人が居るのでしょう。

 そのような人を私は畏怖します。そのような人の心の中にこそ、神は実在するからです。財産や心や、あるいは命すら賭けて後悔しない、させない、絶対的な存在というものが。

 そのような境地にある人には、今更言うまでもないのでしょうが、でもやっぱり言わせてください。どうか忘れないでください。あなたの神はあなたの神でしかないということを。それが普遍的なものだと、他者にも適用できる絶対的な真理であると、どうか錯覚しないでください。あなたの神の名の下に血が流れない為に。

 私の世界に神は存在しませんし、今後も求めることはないでしょう。進化論を含む、心を持たない自然法則が支配する世界において、私は夢を見、物語を綴り、歌を歌い、人を愛して生きていくことができますから。


 ただできれば、私の命が終わるとき、苦痛を感じる神経は麻酔されていてもらえるといいと思います。願わくばそれは晴れた日中で、病室の窓から青い空を仰ぎ見ることができたなら、なおいいと思っています。

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