「囚人のジレンマ」という思考実験をご存知でしょうか。
共犯を行って捕らえられた二人の囚人が、別々に尋問を受けます。二人のうちどちらが主犯だったのか?もう一人は無理矢理従わされた従犯なのか?それとも二人のどちらも対等な罪人なのか?二人の供述次第で判決は決まります。
二人とも、自分たちは対等な共犯者であると供述すれば両者とも刑期2年。
Aが自分は従犯で、Bが自分たちは共謀者だと主張すれば、Aの主張が通りAは無罪放免。Bは刑期5年。逆も同じ。
二人とも、自分は悪くないと主張したなら、両者とも刑期4年。
(そんな法律あるのかなんて突っ込まないように)
さああなたならどうします?相棒を信じて、共謀を主張し仲良く2年の刑に服すことを選べますか?もし相手が裏切ったなら5年の罪になるのを覚悟の上で。
それとも、自分は悪くないとして放免を夢見ますか?あいつも裏切ったとしても、5年食らうよりは4年の方がまだましです。
同じことが何度も繰り返されたとしたら?同じ相棒と、あるいは全く別の初めて組む相手と。どう供述するのが、あなたにとって最も有利な戦術でしょうか。
もともとは人間行動学のモデルだそうですが、「利己的な遺伝子」に支配され、すなわち利己的に振る舞うはずの動物というものに、なぜ利他的行動が進化してきたのか、を考えるモデルにもなっています。二者の間に「協調」と「裏切り」の二枚のカードがあり、互いがどちらのカードを出したか、その結果得られる罰or利益に、
裏切り成功>互いに協調>互いに裏切り>一方的に裏切られ
という不等式が成り立つことが前提です。例えば背中のノミを取ってもらって、お返しに相手のノミを取ってあげるという手間をかけるのでもいい。たくさんの食料にありついた時は、他の個体にわけてやることで、今度自分が飢えている時にお返しをもらえるかも知れません。
そもそも遺伝子が「利己的に」振る舞うというのは、その個体に有利になるように行動させ、利益を最大にすることで、より多くの子孫を残させ、その中に自分のコピーを残させるということの比喩です。それを上手くやってのけさせる遺伝子は集団中に増えていき、下手な遺伝子は駆逐されていきます。もし一見「利他的」に見える行動でも、それが巡りめぐって自分の利益を上げるのならば、それは利己的な、成功する遺伝子と呼んでいいのです。
みんながみんな、相手を疑うことを知らない、常に友好的に利他的に振る舞うユートピア。残念ながらそんな世界は簡単に崩れてしまいます。たった一体の「裏切り」遺伝子を持つ個体が一方的に勝ちをおさめ、裏切られてばかりのお人好しの遺伝子は遠からず駆逐されてしまうでしょう。
しかし動物世界には相互協力がちゃんと成り立っています。それはどんな戦略のもとによるのでしょうか。裏切り者を駆逐しつつ、協力し合える相手とは信頼関係を構築していく。その為にはどれほど複雑な行動様式を支配する遺伝子のセットが必要でしょうか?
80年代、アクセルロッドという科学者が、62もの「囚人のジレンマ」プログラムを募って、コンピュータの中で互いに対戦させる実験を行いました。中には
なんていう複雑なプログラムもあったといいます。それほどでなくても、世界中の科学者が頭を絞って考えた数々の戦術の中で、先の不等式に基づいて、最も高い平均得点を上げた戦術とはどんなものだったのでしょう?
優勝者は、実に単純なモデルでした。
「最初は協力の札を出す。次からは、その前に相手の取った手をそのまま真似する」
これだけです。
つまり最初に協力が成立すれば、そのままずっと友好関係が続く。
相手が裏切ってきたなら、こちらも裏切り返す。
相手が反省して再び協力の札を出したなら、こちらも再び協力をもって返す。
これが、「裏切り者を駆逐しつつ、協力し合える相手とは信頼関係を構築していく」最適モデル、「進化的に安定な戦略」だったのです。
人間の言葉に置き換えるなら、こういうことです。
まずは相手を信じることから始める。
相手が裏切ってきたなら、こちらも裏切ることで罰を与える。
その相手が反省したならば、すっぱりと忘れて最初からやり直す、つまり許す。
信じる。
罰する。
許す。
生き物が協調してやっていくのに要求される能力は、この三つだけなのです。複雑な確率計算なんて必要ないのです。たったこれだけなのです。
しかるに我々人間の世界は…なんて愚痴を言うのはやめにしましょう。
この「囚人のジレンマ」と相互扶助の関係に限らず、「利己的な遺伝子」が数々の利他的行動を、愛情や慈悲や博愛の心を生み出したことを進化論は教えてくれます。
無機化合物にすら適用できる「安定して存在し続けるものだけが存在しうる」というドグマから、これだけのものが生まれてくるのです。
少なからぬSFや、SFでないと自称する物語が、人間は利己的で不完全な存在で、宇宙のどこかに、完成された調和のとれた生命が存在するという夢を語っています。例えば『ファイブスター物語』はこんな風に語ってましたっけ。
「愚かな人間達の行為は…(中略)
やがて神々の失笑を買うでしょう」
否。
いずれ人類にも終わりの日が来るのでしょう。その後の地球に再び知的生命は誕生するでしょうか。あるいは遠い宇宙のどこかに、既に彼らは存在するのかも知れません。
もし進化論というものが普遍的真実であるならば(そう私は信じていますが)宇宙の、時間のどこで知性を持つ生命が発生しても、どんな道のりを辿っても、それはきっと人類と同じ最適戦略に行き着くことでしょう。
「信じ」「罰し」「許す」能力を持った彼らが、遺跡から我々人類というものを知った時。我々自身ですら笑ってしまうような個々の悲喜劇は別として、人類そのもののありようについて決して失笑はしないだろう。彼ら自身を哀れむのと同じ哀れみをもって人類を哀れみ、共感してくれる生物に進化しているだろう。
自分の学んできた学問の名において、私は論理的にそう信じています。
(参考文献:J.R.クレブス N.B.デイビス『行動生態学』
A.アクセルロッド『つきあい方の科学』)
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