合唱曲の歌詞シリーズですが中身は合唱ではありません。とある元生物学生の思索です。
バレンタイン三話について考えたのがきっかけで、己の過去の罪業がいろいろと立ち現れては心を悩ませています。そんなとき、痛みに浸りたいときは吉原幸子の詩に限ります。タイトルに引用した、合唱組曲『幼年連禱』の歌詞でも有名な詩人です。この人の言葉は時に鋭く、時に鈍い痛みをもって人の傷口を抉ってきます。
誰がそれを罰してくれたらう
(『幼年連禱』「喪失」)
私は生物学、それも動物学を専攻する学生でした。したがって、動物実験は避けて通れませんでした。数えようとも思わないほどの数の動物を殺してきています。
生物学生でなくても、直接でなくても、他者を殺さずには生きていけません。食べるために。あるいは身を守るために。菜食主義者のあなた、植物には命がないとでも思っているのですか?
自然界であれば、殺すものと殺されるものとの間には死を賭けた闘争があります。逃げなければ殺される。逃げ切れれば生き延びられる。殺さなければ自分や子が餓死する。殺せば食べて生き延びる事が出来る。
しかしケージの中で生まれ育った実験動物達には闘争の機会はありません。彼らには生き延びる機会はありません。予定通りに「生産」され、出荷され、ほとんどは未熟な学生の実験のために、あるいは血液や臓器の一部を取られるために、ほんの少数は人類の知識の増大のために、殺されていきます。
食べるためなら許されましょう。あるいは身を守るためなら。ある実験の目的のために、あえて脊髄を貫かれて殺されるカエルからつい目を背けてしまった私に「ゲームで、カエル型のモンスターと戦ってると思ってごらん」と言ってくれた同級生がいましたが、そのカエルは私の身を何ら脅かしてはいなかったのです。
自然界でならば、あるいは飢えや寒さに苦しみ、捕食者に怯えながらも自分の力で生きていたはずなのに、自分の体の数倍の大きさでしかないケージの中で、実験動物用フードと水の味しか知らずに、名前もなく、何のよろこびもなく、生まれて殺されていく動物たちを前に、何度も自問しました。
こんなことは許されるのかと。
わたしを殺したのなら
わたしをたべてください
(『魚たち・犬たち・少女たち』「死ぬ母―さらばアフリカ」)
食べるためでも、身を守るためでもなく、なおかつ生きるために殺さなければならなかった。それは私たちが生物学生だったからです。人はパンのみでは生きられない。世界に向かって、自分が何者であるかを問う手段として生物学を選んだ人間にとって、動物実験によって知識を得ることは必要でした。
それでも。
ただ罰されたいときがある
罪びとになりたいときがある
(『幼年連禱』「子に」)
しかるべき代価を払って生産業者から購入され、私たち学生に与えられた動物を殺しても、誰もそれを罰してはくれません。ならば自分で自分を罰するしかないではありませんか。
「ある生命の価値は、それが失われることによる心の痛みで計られる」
これが当時の私のテーゼです。自分に与えられた動物にあえて名前をつけ、実験に支障がなければ美味しいクッキーなどを食べさせてやり、「おいしいかい?よかったね。じゃあ、やるよ」とばかりに。自分でその生命に価値を与え、それを奪い取る事で自分が罰を受けるという仕組みです。教室で実験用ラットを殺して帰ったその手で、自宅でペットのハムスターを愛でるという日々の中での逃げ道でした。
何年も前にも、これとは別のブログでこの事を書きました。その時既に、いやその当時から既に、これが卑怯極まりないことはわかっていました。でも他に一体どうしようがあったのか、とまだその時は叫んでいました。
ひとつの卑怯。
罰をなら ひきうけるのに
罪を ひきうけようとしないこと。
もう一つの卑怯。
罰よりも より多く
罪を ひきうけたがってゐること。
罰は選べない
罪は選べる
さうして わたしたちは選んだのだ!
私たちは手放す
筆のため 墨を
剣のため 弓を
わたしたちは片手なのだ!
さう 何かを手放さなければならない
懺悔を手にするためには 罪そのものを!
(『昼顔』「共犯」より抜粋)
自分の体の数倍の広さでしかないケージという世界しか知らぬまま殺されていく動物たちの生命に価値を、意味を与えたかった。
今なら、それが卑怯であるばかりでなく欺瞞であった事もわかります。自ら罪を科し、自ら罰を受ける、それは酸の杯でアルカリの錠剤を嚥み下すようなことでした。吉原風に言えば
いつわりの罰を受けるために
いつわりの罪をつくりあげた
というところでしょうか(どこが?)
いきなり話飛びますが、PSPでプレイしたゲーム『空の軌跡 the 3rd』の中で、「罰を与える事は、罪人を甘やかすこと」というような台詞が出てきます。安易に罰を求めるなどしてはいけなかったのです。きちんと自分の業を見つめなければならなかったのです。
実験動物たちにとって、自分を殺す人間が罪悪感を抱いていようがいまいが、自分が何のために殺されるのか、全く関係ないことなのです。
彼らは殺されるために生まれてくるのです。
ブロイラーや豚や肉牛と同じように。
そして私たちは確かに彼らを食べることでその死に報いていたのです。口で喰べるのではなく、眼で耳で手で、彼らの骸から知識を吸収し、精神の血肉と成したのです。私の同級生たちは留年した者はいても全員卒業して社会に出ました。そして何らかの形でその知識を活かしたことでしょう。少なくとも私はそうしました。
存在しない罪に対する罰を求め続けてきた、ということがこの年になってやっとわかりました。幼かった当時の自分には、その欺瞞は必要な麻酔薬ではありましたが。
さて、この覚悟を持って、自分の他の罪業にも応用はできるものでしょうか。罪悪感に酔うという悪癖は矯正できるでしょうか。とりあえず今日のところはここまでで。