2014年2月20日木曜日

誰がそれを罰してくれたらう

 合唱曲の歌詞シリーズですが中身は合唱ではありません。とある元生物学生の思索です。

 バレンタイン三話について考えたのがきっかけで、己の過去の罪業がいろいろと立ち現れては心を悩ませています。そんなとき、痛みに浸りたいときは吉原幸子の詩に限ります。タイトルに引用した、合唱組曲『幼年連禱』の歌詞でも有名な詩人です。この人の言葉は時に鋭く、時に鈍い痛みをもって人の傷口を抉ってきます。

                誰がそれを罰してくれたらう
(『幼年連禱』「喪失」)

 私は生物学、それも動物学を専攻する学生でした。したがって、動物実験は避けて通れませんでした。数えようとも思わないほどの数の動物を殺してきています。
 生物学生でなくても、直接でなくても、他者を殺さずには生きていけません。食べるために。あるいは身を守るために。菜食主義者のあなた、植物には命がないとでも思っているのですか?

 自然界であれば、殺すものと殺されるものとの間には死を賭けた闘争があります。逃げなければ殺される。逃げ切れれば生き延びられる。殺さなければ自分や子が餓死する。殺せば食べて生き延びる事が出来る。
 しかしケージの中で生まれ育った実験動物達には闘争の機会はありません。彼らには生き延びる機会はありません。予定通りに「生産」され、出荷され、ほとんどは未熟な学生の実験のために、あるいは血液や臓器の一部を取られるために、ほんの少数は人類の知識の増大のために、殺されていきます。

 食べるためなら許されましょう。あるいは身を守るためなら。ある実験の目的のために、あえて脊髄を貫かれて殺されるカエルからつい目を背けてしまった私に「ゲームで、カエル型のモンスターと戦ってると思ってごらん」と言ってくれた同級生がいましたが、そのカエルは私の身を何ら脅かしてはいなかったのです。

 自然界でならば、あるいは飢えや寒さに苦しみ、捕食者に怯えながらも自分の力で生きていたはずなのに、自分の体の数倍の大きさでしかないケージの中で、実験動物用フードと水の味しか知らずに、名前もなく、何のよろこびもなく、生まれて殺されていく動物たちを前に、何度も自問しました。
 こんなことは許されるのかと。

                わたしを殺したのなら
                わたしをたべてください
                (『魚たち・犬たち・少女たち』「死ぬ母―さらばアフリカ」)

 食べるためでも、身を守るためでもなく、なおかつ生きるために殺さなければならなかった。それは私たちが生物学生だったからです。人はパンのみでは生きられない。世界に向かって、自分が何者であるかを問う手段として生物学を選んだ人間にとって、動物実験によって知識を得ることは必要でした。
 それでも。

                ただ罰されたいときがある
                罪びとになりたいときがある
                (『幼年連禱』「子に」)

 しかるべき代価を払って生産業者から購入され、私たち学生に与えられた動物を殺しても、誰もそれを罰してはくれません。ならば自分で自分を罰するしかないではありませんか。

「ある生命の価値は、それが失われることによる心の痛みで計られる」

 これが当時の私のテーゼです。自分に与えられた動物にあえて名前をつけ、実験に支障がなければ美味しいクッキーなどを食べさせてやり、「おいしいかい?よかったね。じゃあ、やるよ」とばかりに。自分でその生命に価値を与え、それを奪い取る事で自分が罰を受けるという仕組みです。教室で実験用ラットを殺して帰ったその手で、自宅でペットのハムスターを愛でるという日々の中での逃げ道でした。

 何年も前にも、これとは別のブログでこの事を書きました。その時既に、いやその当時から既に、これが卑怯極まりないことはわかっていました。でも他に一体どうしようがあったのか、とまだその時は叫んでいました。

                ひとつの卑怯。
                罰をなら ひきうけるのに
                罪を ひきうけようとしないこと。

                もう一つの卑怯。
                罰よりも より多く
                罪を ひきうけたがってゐること。

                罰は選べない
                罪は選べる

                さうして わたしたちは選んだのだ!

                私たちは手放す
                筆のため 墨を
                剣のため 弓を

                わたしたちは片手なのだ!

                さう 何かを手放さなければならない

                懺悔を手にするためには 罪そのものを!
                (『昼顔』「共犯」より抜粋)

 自分の体の数倍の広さでしかないケージという世界しか知らぬまま殺されていく動物たちの生命に価値を、意味を与えたかった。

 今なら、それが卑怯であるばかりでなく欺瞞であった事もわかります。自ら罪を科し、自ら罰を受ける、それは酸の杯でアルカリの錠剤を嚥み下すようなことでした。吉原風に言えば

                いつわりの罰を受けるために
                いつわりの罪をつくりあげた

というところでしょうか(どこが?)

 いきなり話飛びますが、PSPでプレイしたゲーム『空の軌跡 the 3rd』の中で、「罰を与える事は、罪人を甘やかすこと」というような台詞が出てきます。安易に罰を求めるなどしてはいけなかったのです。きちんと自分の業を見つめなければならなかったのです。

 実験動物たちにとって、自分を殺す人間が罪悪感を抱いていようがいまいが、自分が何のために殺されるのか、全く関係ないことなのです。
 彼らは殺されるために生まれてくるのです。
 ブロイラーや豚や肉牛と同じように。

 そして私たちは確かに彼らを食べることでその死に報いていたのです。口で喰べるのではなく、眼で耳で手で、彼らの骸から知識を吸収し、精神の血肉と成したのです。私の同級生たちは留年した者はいても全員卒業して社会に出ました。そして何らかの形でその知識を活かしたことでしょう。少なくとも私はそうしました。

 存在しない罪に対する罰を求め続けてきた、ということがこの年になってやっとわかりました。幼かった当時の自分には、その欺瞞は必要な麻酔薬ではありましたが。


 さて、この覚悟を持って、自分の他の罪業にも応用はできるものでしょうか。罪悪感に酔うという悪癖は矯正できるでしょうか。とりあえず今日のところはここまでで。

2014年2月17日月曜日

その美しい日に思つた事を。

あれから三日、書きかけ(というかほとんど書き上がり)の
小説のラストが決まらないまま、ぼんやりと音楽を聴いたり
自分の文章を読み直したりしています。
バレンタイン三話における「淳」の扱いが少なすぎるかなと
思ったので、彼にまつわる思い出を少し紹介してみましょう。

私も「淳」も、札幌周辺の他の大学合唱団との交流に
(エール交換、チケット交換、ジョイントコンサートなど)
関わる役職についていたため、他大学の演奏会には
都合がつく限り一緒に出かけていました。
その中でも「淳」が強く感銘を受けていたのが
小樽商科大学グリークラブの歌う男声合唱組曲『吹雪の街を』の
終曲「吹雪の街を」でした。

歌詞&解説
http://www.geocities.jp/bata64_2004/gassyou/hubukino.html

動画(関西学院グリークラブ、2010年)
http://www.youtube.com/watch?v=RxnvOdjRfYc
(終曲「吹雪の街を」が始まるのは14分過ぎです)

「淳」は高校で男声合唱をやっていたのですが
この曲は初聴きだったそうで(私もですが)
「十九の時にこの曲を聴けてよかった」と熱く語っていました。

余計なことは何も考えずに歌に没頭していられた
あの頃はまさしく「美しい日」だったね。

通常の話し声とは違い、ちゃんと全身で発する歌声のピッチは
身長とは逆比例する傾向があります(あくまで傾向ですが)
楽器もそうですね。小さい方が高い音が出るでしょう。
「淳」は例外で、高い所から高い声を出していました。
成層圏をかっ飛んでいく声でした。

『季節へのまなざし』の終曲「ゆめみる」。
『そよぐ幻影』『まぼろしの薔薇』『方舟』。
『ティオの夜の旅』。
夏の朝の成層圏そのものだった君の声も
もちろん忘れてはいないとここに記し留めておきましょう。

カルテット(一部一人、四人で歌う形態)でも一緒に歌ったね。
甃のうえ」はソプラノEちゃん、ベースKちゃんと一緒に。
七夕コンサートの「ひぐらしの歌」はソプラノSちゃん、
ベースが誰だったか思い出せない、ごめん。

(ちなみに私の声は細く薄く、高音が出ないのでアルトでしたが
さりとて深みのある低音も出ないという使えない奴でした。
声量も貧弱でしたし。
その代わり、音取りと暗譜の速さでは四年間トップを切って
アルトをリードしていたつもりではありましたが)

でも「美しい日」に戻りたいとは思わないよ。
今が最高だとわかったから。
本当は美しいばかりではなかったあの時間を
美しいと思い出せる今日、生きていた甲斐があったと思う。
(注:別に病気などで死に瀕している訳ではありません)

諸々の犠牲を払って就いた職を、体を壊して退職してから
自分が生きている意味って何だろうと考えてきましたが
こうして思うことを書き残すことで
巡り巡って誰かの目に触れ、何らかの想いを想起することがもしあれば。

さて、いい加減に小説の蹴りをつけるとしますか。
続きのプロットも押してますし。

2014年2月14日金曜日

『救済』の舞台裏

 バレンタイン三話の最終回です。

 SF小編『救済』の現代編に、淳と梨花子という恋人達が登場します。舞台は北大、二人は四年生。梨花子は幸運にも、望みうる限り最高の就職先を得ます。しかし、淳の方は優れた実務能力を持っていたにもかかわらず、学業が振るわず就職に難儀します。選り好みしなければ、適当な就職先はあったんですが、梨花子に釣り合う地位を求めた彼はそれを蹴り、進路も決まらないまま、卒業すら怪しくなってしまいます。そんな中、父の臨終、明かされる自分の出生の秘密…以下SFらしい展開になっていきます。
 はっきり言葉にせずとも、お互い夢見ていた梨花子との将来を悲観した淳は、半ば自暴自棄になってある選択をしてしまいます…以下ネタバレにつき省略。

 この淳のモデルが、前節「無礼者」で登場した「淳」で、梨花子は私自身です。実際には私と「淳」は一歳違いで、私は留年しつつも大学院修士課程に進学し(実に八年も学生やってたんですね。親に感謝です)その甲斐とまぐれもあって、生物学で修士号を修得し、上級公務員にして研究職員という職を得ました。

 一方でリアル「淳」には「ある選択」はありませんでした。フォローしておきますと、彼は小説の「淳」同様、実務能力は極めて高い人でした。様々なコンサートの実行委員や連盟の役員などを立派にこなし、その実力は周囲にも認められていました。私も合唱団において似たような役職についていたことがありますが、彼には全く敵いませんでした。
「淳」の学業が振るわなかったのは、本来行きたかった学部じゃなかったからです。彼には他にやりたい学問があり、そっち系の大学にも受かっていました。ですが両親が北海道出身という事もあり、お試しで受けた北大法学部に、本人曰くまぐれで合格します。「北海道大学」のネームバリューに目が眩んだ両親や親戚に押し切られる形で、入学させられてしまいました。

(そんな大したものかい北大、と突っ込まれそうですが、北海道の田舎行くと、子供や孫が北大入るってのは、東大に入るのと同じくらい自慢できる事なんです。私の祖母、すっかりボケてしまって、子供の事も忘れてるのに、「孫が北大入った」ってことだけはっきり覚えてて、介護老人ホームの職員さんに自慢しているそうであります)

 運命の輪はかく回り、「上級公務員にして研究職員」に相応しい地位に拘泥した彼はずるずると留年や就職浪人を重ねていきます。このままでは、この人は破綻してしまう。ていうか既に破綻しちゃってる。そう考えた私の方から別れを切り出しました。かなりに非道い言葉で。遅すぎた決断だったかも知れません。直に会って話したら殺されかねない台詞でしたから、電話で話しました。

「結局君は、私よりも面子の方が大事だったんでしょう?良かったじゃない、一番大事なものは失わずに済んで」

 思い出しても身震いがするくらい酷いですね。しかし『救済』で出したように、私の指導教授達には、若い頃奥様に養ってもらいながら学生生活を続けてついには出世した、教授になった方が少なからずいました。実務能力は高かった、決して頭も悪くなかった「淳」にも似たようなことは可能だったと信じていたのです。でもその申し出を断られ、他に何が出来たでしょうか。

 もしも私が就職に失敗していたら。修士になんて進まなかったら。あるいは何か別の選択をしていたなら。
 その後しばらく、そんなことを考えないでもありませんでした。でもやはり勉強でも就職活動(公務員試験一本だった訳ですけど)でも、全力を出さない訳にはいかなかったのです。支えてくれた両親や先生方のためにも、自分自身のためにも、学業の中で犠牲にしてきた実験動物達のためにも。因果な商売です、生物屋というのは。生物が好きで、もっと良く知ろうと努める程に生物を殺しまくるのですから。

「その後出会って数年に渡り交際し、結婚も考えた恋人のことを思い出しても何の感慨もわかないのに」これはもちろん「淳」のことです。これも酷い言い草ですね。でも「薔薇の味」とは逆の理屈なんです。これだけは確かです、いろいろあっても、彼との日々は楽しかったし充実していた。完全燃焼だったからこそ、あとには灰しか残らなかったのです。
 どうか、それを薄情とは言わないで。どうか。

 それから何人かアプローチしてくる異性はいたんですが、多くが収入も地位も私に及ばないか、院卒研究職員という同格の人ばかりでした。「淳」のように彼らを破綻させるのが恐ろしくて、躱すなり牽制するなりしてきました。特に同格の人の方が怖かったですね。元から収入が及ばないのが明らかな人には、それを受け入れる覚悟はあったでしょうから。

 男性って不自由なものですね。

 やっと、話も気も合い、一緒に居て心地良く、なおかつ私が逆立ちしても敵わない学歴と地位の持ち主に出会った時には三十路でありました(笑)。それが今の旦那です。こんな話をしていると「自分を省みるのはいいけど、罪悪感に酔うなよ」とよく言われます。…酔っちゃってますね。悪い癖です。それが学生の頃、実験動物達への罪悪感を克服するために見い出した逃げ道でしたから。その話はまた別の機会に。
 ついでに「We’re all alone」の人のことを思い出して、ここしばらくずっと別の意味で酔ってます。

 私があの人を思い出すように、私を想ってくれた人達は私を思い出すことはあるのでしょうか?
「淳」。
大佐。
大学三年生の間だけ同級生だった、あの人と同じ恵迪寮生だった君。
自分からは決して直接私に話しかけることはなく、用件は全て机の上のメモに、意味深な一言を添えて寄越した、大学院で一つ後輩だった人。
最初の職場に研修に来ていた農業青年。
「タクティクスオウガ」の解釈を巡って対立し、後に解り合い、熱く語り合った相手。
異動先で牽制し、目を逸らし続けた人達。
誰も読まない文章であっても、決してその存在も想いも匂わせてはいけない貴方。


 勝手な願いですが、彼らがみんな幸せに、いい男になってくれているといいなと思います。その奥底に、長身ロングヘアでアルト声の、混声合唱とRPGを愛した理系女の思い出が、あってもなくても構わないから。

2014年2月13日木曜日

無礼者−北大混声合唱団の思い出II

 前節「薔薇の味」のあの人が卒業して、札幌に二度目の春が来て、新入生達が大勢入ってきました。その中に二人の男の子がいました。一人は後にSF小説『救済』の淳のモデルになった人です。以下仮に「淳」としましょう。ほとんど最初から私の後をついてきて、周囲にそうと知れ、噂されるのも厭わずにかまってきました。

 もう一人は…そうですね、「大佐」とでもしましょうか。訳は聞かないでください。彼はひどい無礼者でした。合唱団には体育会系程ではないものの、ちゃんとした上下関係はありました。先輩は「さん」付けで呼び、敬語を使うべし、くらいは。しかし彼と来たら、練習や公式の行事ではともかく、私的な飲み会や集まりで酒が回ると、先輩である私のことを呼び捨てにするわ暴言は吐くわ、忌々しげな目で見るわ、もう失礼極まりない。ときどき教育的指導されてましたし、「淳」も子犬みたいに噛み付いてました。でも不思議と憎めない奴だったんです。私の何がそんなに気に入らないのか知らないけど、そんなに嫌なら近くに来なければいいのに、とか思ってました。

 彼が無礼だったのは私に対してだけで、他の先輩にはちゃんと後輩として接してました。ここで気付いてあげなければいけなかったのにね。でも当時まだあの人のことを忘れられなかった一方で、「淳」に構われるのも悪い気はしなかった私に、大佐にまでは気が回らなかったのです。

 秋が過ぎ、なんだかんだで私は「淳」と付き合い始め、そして三度目の春。私と同じアルトの、素敵な娘が入ってきました。二つ下とは思えない程大人びた彼女に、私は何故か懐かれました。下の名前がかぶっていたのと、「ちゃん」付けで呼ぶのが躊躇われる大人びた雰囲気の彼女を、名字で「T」とだけ呼んでいました。
 さすがに二年生になった大佐は無礼をやめました。でないと一年生に示しがつきませんしね。経緯や正確な時期は知りませんが、四度目の春頃には大佐とTは交際していたと思います。

 いろいろあってまた一年が過ぎ、五度目の、私が卒業する春が来ました。毎年恒例の追い出しコンパ。卒業生は、入場するときのパートナーに、誰でも好きな後輩を指名してよいことになっていました。その頃ちょっと、いやちょっとどころではなくごたごたしていて、「淳」を指名するのは憚られました。ふと頭をよぎったのは大佐です。最後の最後くらい、ちゃんと先輩扱いしなさいよ。そんな意趣返しのつもりでした。
 しかし予想に反して、大佐はそれまで見たこともない、満面のいい笑顔で現れました。

「指名してくださって、ありがとうございます」

 その時初めてわかったんです。あの数々の無礼の理由が。人目も憚らない「淳」と同じ真似が出来なかった彼の忌々しさが。Tが私に懐いた訳が。
 ごめんね、大佐。
 口に出しては何も言いませんでした。ただこちらも最高の笑顔で返し、大佐と腕を組んで入場しました。「淳」やTの見守る前で。皆笑顔でした。いい日だったなあ。
 大佐も「淳」もTも写っていない、卒業生だけで写したその日の写真、今でもベッドサイドに飾ってあります。いつもはカメラに向かって上手く笑えない私の、最高のいい笑顔がそこに残っています。


 余談ですが、大佐とTは順調に交際を続け、卒業後めでたく結婚しました。式はありませんでしたがお祝い会があり、行く気満々だったのに当日ひどい風邪にやられ、出席者にお祝いの品、トトロのマグカップセットを託しました。喜んでくれたと後で報告がありました。

2014年2月12日水曜日

薔薇の味-北大混声合唱団の思い出I

 半年以上の放置からこんばんは。
 バレンタインということで、三夜連続で古い恋話をお送りします。

「花を食べると純愛の味がする」

 西村しのぶ氏の漫画『サード・ガール』で、美也さんのこんな台詞がありました。

 恋人の涼さんが贈ってくれた薔薇を「飾るには下品だわこの薔薇」と言ってジャムに煮込んでしまいます。ついでに「ビールのあてに一ひら生食」もしています。涼さんは「薔薇の味の程までは聞けなかった」と一人ごちています。
 出来上がったジャムを、美也さんは涼さんの公認(?!)ガールフレンドである夜梨子ちゃんに一瓶プレゼントします。喜んで味見してみた夜梨子ちゃんですが…

「苦いだけなのよね。食べられやしない」

 それを読んだ当時確か大学三〜四年生で、恋人がいた私は、それはそうかも知れない、と思いました。純愛なんて所詮徒花よね。恋する相手に何が何でもアタックしてこそでしょ、と。いや、でも…こんなこともあったっけ…。

 大学一年の頃、好きだった男性がいました。いや、「好きだった」などという軽い言葉ではないかな。かといって「愛していた」なんて生々しい感情でもなく。「慕っていた」というのが相応しいでしょうか。
 合唱団の先輩で、当時その人は四年生。たった一年の交流でした。もちろん歌は上手くて、夏の合宿の食事の席で、ボズ・スキャッグスの名曲「We’re all alone」を無伴奏で歌って聴かせてくれました。話し声は高めなのに、歌うと低いローベースの声。音楽以外にも、絵画が趣味で、演奏会のポスターや看板に美しいイラストを描いていました。お酒はバーボンウイスキー、特にワイルドターキー。身長180センチ、スマートそうに見えて素手でクルミを割る握力、中身は硬派なのに人当たりは柔らか。後輩への面倒見もいい人でした。農学部生、恵迪寮暮らし。

 合唱団の新歓コンパで隣の席だったのがきっかけだったと思います。第一印象は「普通に優しそうな人だな」でした。
 しかしコンパ一次会がはけて、お決まりの北大寮歌『都ぞ弥生』の合唱が始まります。まず前口上の『楡陵謳春賦』。その声は、私の真横、いや頭上から響きわたったのです。
「わーれーらーが三年(みとせ)を契る、絢爛の響宴(うたげ)()に過ぎ易し。」
「おおーっ」唱和する声。
「然れども見ずや穹北に瞬く星斗(せいと)永久(とわ)に曇りなく、
 雲とまがふ万朶(ばんだ)の桜花久遠(くおん)に萎えざるを。」
「おおーっ」
寮友(とも)よ徒に明日の運命(さだめ)を嘆かんよりも楡林に篝火を焚きて、
 ()りては再び返らざる若き日の感激を謳歌(うた)わん。
 明治四十五年度寮歌、横山芳介君作歌、赤木顕次君作曲。」
 ここから皆が唱和します。
「みーやーこーぞー、やーよいー!
 Eins, zwei, drei!
 続く圧倒的な都の歌声。もちろんクラスの飲み会で既に経験していましたが、こちらは合唱団です。声量も歌い回しも桁違いです。さらに二番は転調し、混声四部で歌われます。この時はまだ教わっていませんでしたから、普通に主旋律を歌います。酔いました。

 それからどんな経緯でその人に夢中になったのかは覚えていません。四年生なのに行事や内輪の集まりへの出席率は高い人で、可能な限りその背後にくっついて歩いていました。合唱団の溜まり場にもよく顔を出していました。その人がいたから、コンサートの実行委員も引き受けました。

 そんな中で、気が付いてしまったのですね。その人に想う相手がいることを。私の一つ上、その人にとっては二つ下の、大人びた綺麗な人でした。打ち拉がれる一方、その女性にとってもその人は眼中にないことがすぐにわかりました。その人にとって私が眼中にないのと同じように、いやそれ以上に。ついでにその女性にも想う人がいて、こちらには公認の彼女がいました。
 そんなことをおぼろげに理解したまま、溜まり場で三人で過ごした時間もありました。私は譜読みをしながら、先輩はレポートを書きながら、その人は絵を描きながら。
 その当時は苦しいと感じていたと記憶しています。なのに、何故なんでしょうね。その苦しさが無性に懐かしく感じられるのは。
 誰も、告白しようとはしませんでした。あの空気を、あの状態を壊したくなかったのです。「今の関係を壊したくないから」なんて逃げでしょうか?告白して玉砕して次の恋を探すべきだったでしょうか?
 当時も今もそうは思いません。恋愛の成就よりも大切なことがあったんです。皆、合唱団が、歌が何より大事でした。歌が好きという理由ばかりではなく、それが自分なんて眼中にない相手と繋がる唯一の手段だったからです。恋愛沙汰で団に迷惑をかけるべからず、という強固な暗黙の不文律もあり、どうにもならなくなった人は「学業に専念するために」辞めていきました。

 いや、仮に誰かが告白していたとしても、関係は変わらなかったかもしれませんね。想う相手とは別の相手に告白されて、簡単にそっちに靡いてしまうような、そんな器用な人間が集う大学でも、合唱団でもなかったのです。みんな不器用で真面目で一途でした。

 しかし時は容赦なく流れ、冬の定期演奏会も終わり、その人が卒業する日が近づいてきます。その前に訪れる二月十四日。頑張って手作りトリュフと手紙を用意し、その日、溜まり場から帰っていくその人を呼び止めて手渡しました。冬の陽はとっぷり暮れ、雪がちらついていたのを覚えています。
 いい返事は全く期待していませんでした。ただ知ってもらいたかったのです。もうすぐ卒業していなくなるその人に、ただの後輩としてしか記憶されないのだけは堪えられなかった。知ってもらいたかったんです。
 手紙にはストレートな文言は何も書きませんでした。ただこの十ヶ月の思い出と、自分にとってその人がどういう存在であったかだけ。だからノーリアクションでも別に残念には思いませんでした。迷惑はかけたくなかった。知って、覚えていてもらえれば十分だったんです。

 何故なんでしょうね。
 その後出会って数年に渡り交際し、結婚も考えた恋人のことを思い出しても何の感慨もわかないのに、一年足らずの片思いに過ぎなかったその人のことは鮮明に思い起こすのは。例えばワイルドターキーの香りをかいだ時に。例えば「We’re all alone」の旋律を聴いた時に。

 そんなことをつらつら考えていて、冒頭の美也さんの台詞を思い出しました。苦いだけだったかも知れない、その想いの価値を。
 ワイン用の葡萄のような例外はありますが、美味しいお酒の原料って、それ自体を食べても美味しくない物が多いのですよね。酒米とかライ麦とか。でも、それらは歳月を重ねて芳醇な香りを醸し出します。

                Once a story's told, it can’t help but grow old.
                Roses do, Lovers too.

 楽しかった思い出は、時とともに風化し色褪せていきます。「We’re all alone」の歌詞にもあるように。しかし苦く苦しかった思い出は、時を経て劣化するどころか、当時は考えもしなかった優しい味わいに変わるのですね。

 これが思い出フィルターというものでしょうか。それとも自分の味覚が変わったのでしょうか。わかりませんし、わからないままでもいいと思っています。

 その人は卒業後一年札幌にいて、時々OBとして顔を出していました。一年後、実家に戻っていってからは全く会っても消息を聞いてもいません。連絡手段もありません。ただ、もしも機会があったら、伝えられるものならと思います。
 今でも「We’re all alone」の旋律を聴くと、あなたの歌声を思い出します、と。