2014年3月28日金曜日

桜咲く



 最近しんどいエントリが続いたので箸休め。
 昨日の蕾と今日の花。

2014年3月26日水曜日

Grok Jonathans

 大多数の「普通の人間」というものは、皆多かれ少なかれ闇とか狂気というものを心の裡に孕んでいるものだと思っていましたが、今日カウンセラーの先生に伺ったところでは、そういう人間は少数派であるらしいです。信じたくないですが本当にそうなんでしょうか。

 日本社会を揺るがした、オウム真理教による一連の犯罪。犠牲になった方々に心からの哀悼の意を表します。狂信者の凶行の犠牲になるのは恐ろしいことです。しかし私がそれ以上に恐ろしいと思ったのは、自分が狂信者になってしまうことでした。育てられようによっては、自分もああなっていたかも知れないのです。

 幼い頃から、自分の中に狂信者の素質があることは気付いていました。「踏み絵」を拒んで火炙りに処せられた隠れ切支丹の物語に涙すると同時に、彼らに憧れる感情がありました。隠れ切支丹が狂信者であると言っている訳ではありません、彼らは好き好んで火炙りにされた訳ではなかったのです。しかし自分の中にはあのようにありたい、何もかも犠牲にできるような情熱の対象を見いだし、それに殉じたい、と願う気持ちがありました。

 幸いにして私は道を踏み外すことなく、正常な理性を持つ大人になりました。しかしオウム事件の報道を観ていて、あの狂気は他人のものではないと感じました。一歩間違えば、自分もあの世界に取り込まれていたかも知れない。それはいけない、何とか自分を護らなくてはならない。その時こんな報道がありました。オウムの犯罪に深く関わった信徒の一人が、サティアンに加わるため家を出た時、泣いて引き留める家族に『かもめのジョナサン』を手渡し、「僕の心はここにある」と語ったと言う話です。

 即座に買って読みました。彼らの狂気の片鱗を知り、それに対抗する為に。取り込まれる前に取り込む為に。喰われる前に喰う為に。
…ああ、そういうことか。彼の思いがちゃんと腑に落ちました。純粋だった筈のそれが歪められ、煽動され、最後にはあのような犯罪行為に走らせたことが、同じ人間として残念に思われます。

(ちなみにこのことを、就職面接でも使いました。履歴書の趣味に「読書」と書けば当然想定される「最近読んだ本は?」という問いに、
「『かもめのジョナサン』です。オウム信徒の気持ちというものを理解したかったのです」
 その時は、自分という人間を知ってもらうのに格好のネタだと思ったのですが、今思うとよく採用されたものですね!面接官にはさして感銘を与えられたようではありませんでした)

 オウム事件に限らず、ホロコーストや自爆テロと言った、狂気の沙汰としか思われない凶行に走る人たちの気持ちというものを、私は想像し共感することができます。説明してみろと言われても今は無理です、それを語る言葉をまだ持ちません。ただわかるのです。それらの許すべからざる罪が、獣や機械や怪物ではなく、自分と同じ血の流れる人間の所業であることを、素直に受け容れ認められるのです。
 心理学や精神医学やカウンセラーとしての教育を受けて理屈で理解するのではなく、生まれ持った心で自然に理解できる、認識(グロク)(前節「quia pius es」の注参照)できるのです。

 先生の話では、それは私の人格の瑕瑾ではなく、才能として受け止め、活かすべきであるということでした。狂っているようにしか見えない、事実狂っている彼らの抱いているであろう感情を、まっとうで健全な人間に理解できる言葉で表現し伝えようという試みには価値があるかもしれません。努力してみます。

 と言いつつ、私にも絶対に理解も共感も存在を許すこともできない対象があります。それはサイコパス。奴らについてはまた別の機会に語りましょう…また別の深淵を覗き込む覚悟ができた時に。

付け足し。
このエントリに「Grok Jonathans」という、読んでみないと意味が分からないけど美しいタイトルをつけてくれたのは上様です。私は当初「狂信者属性」という穏やかならぬ題を考えていました。ちょっとやばかったですね。

2014年3月25日火曜日

quia pius es

 最近ツイッターを始めました。いろいろ呟いたり人の呟きを見ているうちに、初めて、外でのつながりが全くない、ツイッター由来のお友達(と私は勝手に思っていますが)ができました。接点は合唱とゲーム音楽。その方が紹介してくださった、ゲーム合唱曲動画の一節に感じたことを叫びます。

その動画です。まずは聴いてみてください。

 それは戦闘機ゲーム、舞台はおそらく激しい空中戦。一呼吸ごとに、敵味方の戦闘機が撃墜され空に散っていっているのであろうその最中、その空に響き渡るレクイエム、「Agnus Dei(神の子羊)」。

 ミサ典礼文なんてものに全く縁のないであろう一般ゲーマー閲覧者の為でしょうか、きちんと歌詞と、投稿者自身の手によるものらしい対訳が表示されます。

Agnus Dei, qui tollis peccata mundi: qui tollis peccata mundi:
世の罪を取り除く神の子羊よ、世の罪を取り除き賜え

Agnus Dei, qui tollis peccata mundi: dona eis requiem.
世の罪を取り除く神の子羊よ、彼らに安息を与え賜え

動画では「神」の字に旧字体が使われてます。このセンス、素敵です。…しかし続いて。
           
Lux aeterna luceat eis, Domine: cum sanctis tuis in aeternum,
主よ、彼らを永遠の光で照らし賜え、聖者達と共に永遠に

quia pius es.
あなたは慈悲深く在られるのだから


あなたは慈悲深く在られるのだから

 この一節に、後頭部を殴られたかのような衝撃を覚えました。こんな訳、見たことない。何故だか震えが止まらない。

 私が初めて歌った記念すべき、フォーレのレクイエム(楽譜:全音出版)の歌詞対訳は、今手元になく覚えていませんが、こんな言葉ではありませんでした。
 シューマンのレクイエムのCDのスリーブでは
「これおんみは慈悲深くいませばなり。」
 いろいろ検索したところでは、
「なぜならあなたは慈愛深い方ですから。」
「慈悲深き主よ」
「なぜならあなたはいつくしみ深い方ですから。」
「あなたは慈悲深くあられるのですから」これはちょっと近いかも。

 かつての自分はフォーレをどう歌っていたのでしたか…ただ

quia(ゆえに)pius(優しさ、慈悲深さ)es(あなたの)

 とだけ理解して、そのまま「あなたの慈悲深さゆえに」と取っていたのでしょうか。あの時、習い始めた時十八で、ステージに上がった時十九だった私は全く考えようとはしませんでした。何故この一見優しい言葉が、あのような旋律で歌われるのか。一度目は切実に問いかけるように、二度目はまるで絶望の叫びのように。

 モーツァルトのレクイエムの「Agnus Dei」はモーツァルトの作品ではありませんが、「Kyrie」をそっくりそのままコピーした二重フーガと、捻れながら上昇しつつ低声部から高声部へと受け渡されていく(まるで天に届かせようとするかのように)「cum sanctis tuis in aeternum」の果てに、ただ一度だけ全声で歌われる「quia pius es」、あれは覗き込んではならない深淵のようでした。
 知る限りシューマンのレクイエムだけが、字面通りの優しい光として歌われていました。かつては好きだったそれが、自分の中で急速に色を失っていくのを感じます。

あなたは慈悲深く在られるのだから

 何故、この一節のこの訳をこれほどまでに恐ろしいと感じるのでしょう?

 かつてこんな文章を書いていて、反語というものが疑問文の形を取った強い否定であるように、烈しすぎる否定というものもまた問いかけの一つの形なのではないかと考えたことがあります。
 この一節のこの訳にも似たようなことを感じるのです。見た目の構文が語る以上のものを訴えているような気がするのです。

            あなたは慈悲深く在られるのだから。

            あなたは慈悲深い筈なのですから。

            あなたは慈悲深いのでしょう?



            あなたは慈悲深くはないのですか?



 今自分がこの訳に突き付けられていることは、もしかしたらラテン語の原文では自明のことだったりするのかもしれません。
 イスラム教の聖典「コーラン」は、本当は翻訳してはいけないと言います。御言葉を正確に翻訳するということは、不可能なのでしょうか?実際、日本語の愛はloveではないし、正義はjusticeではないように。
 実は「quia pius es」という言葉が語るのは「あなたの慈悲深さゆえに」などという意味ではなく、そのことを、ラテン語を操り神の言葉を説く人達は、僧侶達は、神学者達は、とっくに承知だったのでしょうか?

 神が、本当は、(恐ろしくて言葉にできません)ということを。

 それはラテン語を教養の基礎におく欧米の知識人達にとっても、例えば作曲家ガブリエル・フォーレにとっても承知のことだったのでしょうか?あの言葉がああまで絶望的に歌われるのはそれ故ですか?

 自分は、何を歌ったつもりでいたのでしょうか。

 私は生物学を、進化論を勉強する為にキリスト教を棄てた訳ですが、そうでなかったとしても遅かれ早かれ、「全知全能にして慈悲深き神」などという矛盾した存在には耐えられなくなっていたでしょう。
 もし生物学者達が間違っていて、造物主たる神が実在したとしても、私はそれを畏怖しません(作ってくれてありがとう、と感謝はするかもしれません。産み育ててくれた親にするように)。さまざまな物語に登場する、神を名乗る怪物達に対してもまた然り。

 ですが、先に私が言葉にできなかったことを認識(グロク)(注)した上で、それでもなお神を信じるという人達を、私は心から畏怖します。畏怖しつつ後ずさり遠ざかります。私はあなた達に近づくことはできない。私は神を信頼することができない=神と「囚人のジレンマ」を競う気にはなれない。

 そして我が師達、私に前節「『囚人のジレンマ』が語るもの」で語ったことを悟らせてくれた生物学者達に心からの感謝の手を差し伸べます。教えてくれてありがとう。人が慈悲の心を持つのは、神様が与えてくれたからではなくて、ただ合理性を、利己性を追求した先の帰結であることを。

 やっと震えが収まってきました。お風呂入って落ち着いたら投稿するとしましょう。

3/29付け足し:お店で全音のフォーレクの楽譜を立ち読みしてきました。「quia pius es」の訳は「慈悲深き主よ」でした。今の自分が歌うなら、込める気持ちは「慈悲深く在れ」
 文法無視。命令形。神に向かって命令形。

 あ、でもレクイエムの歌詞って結構命令形ありましたね?「主よ」とか「〜賜え」とかついてるから謙ってるように見えるだけで。


(注)認識(グロク)する」とは:R.A.ハインラインが『異星の客』の中で創作した造語。対象を、言葉や理屈ではなく肚の底から理解する、納得する、と言った感じの意味。…で正しいのだろうか。実は自分も「認識(グロク)する」という言葉を正しく認識(グロク)できているのかどうか自信がありません。まあフィーリングで。

2014年3月24日月曜日

「囚人のジレンマ」の語るもの

囚人のジレンマ」という思考実験をご存知でしょうか。
 共犯を行って捕らえられた二人の囚人が、別々に尋問を受けます。二人のうちどちらが主犯だったのか?もう一人は無理矢理従わされた従犯なのか?それとも二人のどちらも対等な罪人なのか?二人の供述次第で判決は決まります。

 二人とも、自分たちは対等な共犯者であると供述すれば両者とも刑期2年。
 Aが自分は従犯で、Bが自分たちは共謀者だと主張すれば、Aの主張が通りAは無罪放免。Bは刑期5年。逆も同じ。
 二人とも、自分は悪くないと主張したなら、両者とも刑期4年。
(そんな法律あるのかなんて突っ込まないように)

 さああなたならどうします?相棒を信じて、共謀を主張し仲良く2年の刑に服すことを選べますか?もし相手が裏切ったなら5年の罪になるのを覚悟の上で。
 それとも、自分は悪くないとして放免を夢見ますか?あいつも裏切ったとしても、5年食らうよりは4年の方がまだましです。
 同じことが何度も繰り返されたとしたら?同じ相棒と、あるいは全く別の初めて組む相手と。どう供述するのが、あなたにとって最も有利な戦術でしょうか。

 もともとは人間行動学のモデルだそうですが、「利己的な遺伝子」に支配され、すなわち利己的に振る舞うはずの動物というものに、なぜ利他的行動が進化してきたのか、を考えるモデルにもなっています。二者の間に「協調」と「裏切り」の二枚のカードがあり、互いがどちらのカードを出したか、その結果得られる罰or利益に、


裏切り成功>互いに協調>互いに裏切り>一方的に裏切られ
  
という不等式が成り立つことが前提です。例えば背中のノミを取ってもらって、お返しに相手のノミを取ってあげるという手間をかけるのでもいい。たくさんの食料にありついた時は、他の個体にわけてやることで、今度自分が飢えている時にお返しをもらえるかも知れません。

 そもそも遺伝子が「利己的に」振る舞うというのは、その個体に有利になるように行動させ、利益を最大にすることで、より多くの子孫を残させ、その中に自分のコピーを残させるということの比喩です。それを上手くやってのけさせる遺伝子は集団中に増えていき、下手な遺伝子は駆逐されていきます。もし一見「利他的」に見える行動でも、それが巡りめぐって自分の利益を上げるのならば、それは利己的な、成功する遺伝子と呼んでいいのです。

 みんながみんな、相手を疑うことを知らない、常に友好的に利他的に振る舞うユートピア。残念ながらそんな世界は簡単に崩れてしまいます。たった一体の「裏切り」遺伝子を持つ個体が一方的に勝ちをおさめ、裏切られてばかりのお人好しの遺伝子は遠からず駆逐されてしまうでしょう。
 しかし動物世界には相互協力がちゃんと成り立っています。それはどんな戦略のもとによるのでしょうか。裏切り者を駆逐しつつ、協力し合える相手とは信頼関係を構築していく。その為にはどれほど複雑な行動様式を支配する遺伝子のセットが必要でしょうか?

 80年代、アクセルロッドという科学者が、62もの「囚人のジレンマ」プログラムを募って、コンピュータの中で互いに対戦させる実験を行いました。中には
1回ごとに、対戦相手の行動をマルコフ連鎖モデルに当てはめ、ベイズ推定を用いて長期間における最良の手を選択せよ」
なんていう複雑なプログラムもあったといいます。それほどでなくても、世界中の科学者が頭を絞って考えた数々の戦術の中で、先の不等式に基づいて、最も高い平均得点を上げた戦術とはどんなものだったのでしょう?

 優勝者は、実に単純なモデルでした。
「最初は協力の札を出す。次からは、その前に相手の取った手をそのまま真似する」
 これだけです。
 つまり最初に協力が成立すれば、そのままずっと友好関係が続く。
 相手が裏切ってきたなら、こちらも裏切り返す。
 相手が反省して再び協力の札を出したなら、こちらも再び協力をもって返す。
 これが、「裏切り者を駆逐しつつ、協力し合える相手とは信頼関係を構築していく」最適モデル、「進化的に安定な戦略」だったのです。

 人間の言葉に置き換えるなら、こういうことです。

 まずは相手を信じることから始める。
 相手が裏切ってきたなら、こちらも裏切ることで罰を与える。
 その相手が反省したならば、すっぱりと忘れて最初からやり直す、つまり許す。

 信じる。
 罰する。
 許す。

 生き物が協調してやっていくのに要求される能力は、この三つだけなのです。複雑な確率計算なんて必要ないのです。たったこれだけなのです。

 しかるに我々人間の世界は…なんて愚痴を言うのはやめにしましょう。
 この「囚人のジレンマ」と相互扶助の関係に限らず、「利己的な遺伝子」が数々の利他的行動を、愛情や慈悲や博愛の心を生み出したことを進化論は教えてくれます。
 無機化合物にすら適用できる「安定して存在し続けるものだけが存在しうる」というドグマから、これだけのものが生まれてくるのです。

 少なからぬSFや、SFでないと自称する物語が、人間は利己的で不完全な存在で、宇宙のどこかに、完成された調和のとれた生命が存在するという夢を語っています。例えば『ファイブスター物語』はこんな風に語ってましたっけ。

「愚かな人間達の行為は…(中略)
 やがて神々の失笑を買うでしょう」




 否。

 いずれ人類にも終わりの日が来るのでしょう。その後の地球に再び知的生命は誕生するでしょうか。あるいは遠い宇宙のどこかに、既に彼らは存在するのかも知れません。
 もし進化論というものが普遍的真実であるならば(そう私は信じていますが)宇宙の、時間のどこで知性を持つ生命が発生しても、どんな道のりを辿っても、それはきっと人類と同じ最適戦略に行き着くことでしょう。

「信じ」「罰し」「許す」能力を持った彼らが、遺跡から我々人類というものを知った時。我々自身ですら笑ってしまうような個々の悲喜劇は別として、人類そのもののありようについて決して失笑はしないだろう。彼ら自身を哀れむのと同じ哀れみをもって人類を哀れみ、共感してくれる生物に進化しているだろう。
 自分の学んできた学問の名において、私は論理的にそう信じています。


(参考文献:J.R.クレブス N.B.デイビス『行動生態学』

A.アクセルロッド『つきあい方の科学』)