大多数の「普通の人間」というものは、皆多かれ少なかれ闇とか狂気というものを心の裡に孕んでいるものだと思っていましたが、今日カウンセラーの先生に伺ったところでは、そういう人間は少数派であるらしいです。信じたくないですが本当にそうなんでしょうか。
日本社会を揺るがした、オウム真理教による一連の犯罪。犠牲になった方々に心からの哀悼の意を表します。狂信者の凶行の犠牲になるのは恐ろしいことです。しかし私がそれ以上に恐ろしいと思ったのは、自分が狂信者になってしまうことでした。育てられようによっては、自分もああなっていたかも知れないのです。
幼い頃から、自分の中に狂信者の素質があることは気付いていました。「踏み絵」を拒んで火炙りに処せられた隠れ切支丹の物語に涙すると同時に、彼らに憧れる感情がありました。隠れ切支丹が狂信者であると言っている訳ではありません、彼らは好き好んで火炙りにされた訳ではなかったのです。しかし自分の中にはあのようにありたい、何もかも犠牲にできるような情熱の対象を見いだし、それに殉じたい、と願う気持ちがありました。
幸いにして私は道を踏み外すことなく、正常な理性を持つ大人になりました。しかしオウム事件の報道を観ていて、あの狂気は他人のものではないと感じました。一歩間違えば、自分もあの世界に取り込まれていたかも知れない。それはいけない、何とか自分を護らなくてはならない。その時こんな報道がありました。オウムの犯罪に深く関わった信徒の一人が、サティアンに加わるため家を出た時、泣いて引き留める家族に『かもめのジョナサン』を手渡し、「僕の心はここにある」と語ったと言う話です。
即座に買って読みました。彼らの狂気の片鱗を知り、それに対抗する為に。取り込まれる前に取り込む為に。喰われる前に喰う為に。
…ああ、そういうことか。彼の思いがちゃんと腑に落ちました。純粋だった筈のそれが歪められ、煽動され、最後にはあのような犯罪行為に走らせたことが、同じ人間として残念に思われます。
(ちなみにこのことを、就職面接でも使いました。履歴書の趣味に「読書」と書けば当然想定される「最近読んだ本は?」という問いに、
「『かもめのジョナサン』です。オウム信徒の気持ちというものを理解したかったのです」
その時は、自分という人間を知ってもらうのに格好のネタだと思ったのですが、今思うとよく採用されたものですね!面接官にはさして感銘を与えられたようではありませんでした)
オウム事件に限らず、ホロコーストや自爆テロと言った、狂気の沙汰としか思われない凶行に走る人たちの気持ちというものを、私は想像し共感することができます。説明してみろと言われても今は無理です、それを語る言葉をまだ持ちません。ただわかるのです。それらの許すべからざる罪が、獣や機械や怪物ではなく、自分と同じ血の流れる人間の所業であることを、素直に受け容れ認められるのです。
心理学や精神医学やカウンセラーとしての教育を受けて理屈で理解するのではなく、生まれ持った心で自然に理解できる、認識(前節「quia pius es」の注参照)できるのです。
先生の話では、それは私の人格の瑕瑾ではなく、才能として受け止め、活かすべきであるということでした。狂っているようにしか見えない、事実狂っている彼らの抱いているであろう感情を、まっとうで健全な人間に理解できる言葉で表現し伝えようという試みには価値があるかもしれません。努力してみます。
付け足し。
このエントリに「Grok Jonathans」という、読んでみないと意味が分からないけど美しいタイトルをつけてくれたのは上様です。私は当初「狂信者属性」という穏やかならぬ題を考えていました。ちょっとやばかったですね。
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